文政7年。
5月7日より27日まで真広寺で開帳する。
玉日宮御作、祖師聖人木像。
関東六僧第一、二十四輩第二番、真仏上人開基、其外霊宝、下総結城 称名寺。
370両かけて伝馬町鶴車は幕が猩々緋で前の通りになる。
東馬場石谷稽古場で訐鞠(蹴鞠)が流行る。
広小路大島稽古場でも始めたいと願いがある。
珍しいので見物人が多く集まり、町人などは無礼で何かと不穏であったので中断する。
御用人衆の中でも若手の衆が内緒で内馬場などで行うと。
その後、出来町石河下屋敷の敷地内に30間(1間は約1、8メートル)、巾80間ほどの馬場ができる。
折々行われると。
任セ坊という仏の道から外れた者が知多郡成岩村に現れる。
自分は龍の子だと言いふらす。
とても怪しげな行いである。
加持祈祷の効果があるとのことだが、金銀は受け取らず。
披露するとそれほどでもないが、随分と引き受けているようである。
その繁盛ぶりはなんと言っていいのやら。
1、2年すると一向に噂も聞かなくなる。
一体どういうことであろうか。
自分はこの類はとても嫌いである。
正しい教えをよく知ることがどうして繁盛や奇怪を好むであろうか。
憎々しきことである。
1、2年よりも前のこと、上行坊という僧が麁服(あらたえ、粗末な服)で市中を徘徊し、灸を授ける。
弘法大師を信じ、近年21ヶ所の札所を建立したのもこの者の進言によるもので、信者を集めたようである。
この僧のこともしばらくすると一向に噂も聞かなくなりどうなったことやら。
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