名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

2024-11-01から1ヶ月間の記事一覧

磔と打ち捨てってどっちが罪が重いのでしょうか

正徳3年5月30日。津田奥右衛門召仕谷介を引き廻し、磔となる。枝(橦)木町へもやって来る。札には、この者は主人の長屋へ古着買いをだまして呼び入れ、金を奪って殺し、その他あちこちで盗みに入ったためこの如くと云々。仲間1人は追放となる。これは…

うーん、流行りですか

正徳3年5月25日。本町木薬屋(生薬屋)十左衛門二男弥左衛門という者が横丁の歩き(使い走り)の伝六の妻と関係を持ったことが露見する。2度と云々。金70両を出して詫び、事をおさめる。糸屋彦六二男も兄の姑と関係を持ったことが露見し、髪を切られ…

物価高騰

正徳3年5月24日。井田源助が言うには今どき去年の麦である上麦は1両で7斗。数十年ない高値と云々。

1貫文は1000文なんですよね

正徳3年5月22日。当地の銭965文。江戸では1貫60ほどと云々。

1束がどれぐらいなんでしょう

正徳3年5月19日。文左衛門は薪を4両で買い求める。1両で420束。車賃は1分につき(この1分の意味が不明、重さ?)丁(町?1町なら約100メートル)55文。

700両と300両では300両でしょう

正徳3年5月17日。少し前、本寿院様御局の屋敷見分で葺替なら700両、さし板なら300両と云々。平左衛門の指図でさし板となった。尼は怒って、公に平左衛門は不届者だから叱るようにと仰せ遣わされたと云々。

出雲様は光友の息子ですから当時としては高齢

正徳3年5月18日。名古屋から馬の頭がほとんど出なかった。近隣からも少しであった。たとえ出ても俄馬で、山車の飾りなどもなく、人数も少なかった。未(午後1時)頃、弥次右で酒を頂く。藤入を同道し、巾下六大夫のところへ3人連れで出かけ、水車を見…

今も芸能人に会わせてやるって詐欺がありますよ

正徳3年5月15日。稲荷は水茶屋(境内などにある茶屋)を許可される。茶屋株は社の南隣の蠏江清次郎と門前町の町代井桁屋市左衛門へ申し渡しがこの日ある。蠏江清次郎は以前は以春といい、聖落ちの子で双子であった。同じ時に生まれた弟は真言の僧であっ…

有計はどうしようもない養父でしたね

正徳3年5月14日。米倉伊平次が分蔵のところまで現れたことをこの日頭へ報告したところ、秋元源左衛門に当分御預けと云々。左平太はいまだ現れず。この2人を尋ねだすようにと有計、分蔵その他同族に仰せ付けられたため。

いろいろと偏見もあるし

正徳3年5月11日。隼人正組酒田弥太夫は長年煩っていたので、知行・屋敷を召し上げて五人扶持となる。14日までに屋敷を空けるようにと云々。小笠原源太左衛門より申し渡す。弥太夫の娘は服部沢右衛門の妻であった。弥太夫はここ数年乱心のような病気で…

仕事か遊びか区別がつかない

正徳3年5月10日。文左衛門は分四に誘われ、卯半(午前6時)に納屋橋で待ち合わせて船に乗り、熱田新田の圦の場所を見物に出かける。百介も麦の検見があったので、これ幸いと同じ船に乗り、庄屋宅左衛門のところで休憩する。うなぎの吸物で酒が出る。百…

人の悩みはわからない

正徳3年5月1日。中嶋郡柿ノ木嶋村十大夫という百姓が、この夜長良佐屋海道の並木の松にでをくくって死ぬ。乱心かと。30歳ばかりで4日に死体を渡す。

正徳3年5月の天気です

正徳3年5月2日。1日中天気が安定せず。雲が乾(北西)へ流れて行く。巽(南東)の風が吹き、夜になると時々雨が降る。亥(午後9時)過ぎから雨が降り出し、風も吹き、1晩中激しく雨が降る。正徳3年5月3日。雨が止み、段々と晴れる。薄曇。正徳3年…

何をしでかしたのやら

正徳3年4月28日。高須で津守様(松平義行)寄組の義右衛門弟の岡崎伴右衛門が池田喜兵衛と共に暇を下され、領分中に留まらないようにと。改易とは言っていないが、実際は改易であった。

自然はどうしようもない

正徳3年4月27日。東海道大井川、藤川、天竜などではかなり増水する。千村数馬は22日に名古屋に到着するところ今日になってもまだ到着せず。九条様も23日に熱田に泊まられるはずが、28日に泊まられる。大田藤右衛門は22日に尾張を出発し、かなり…

やたらあっさりと書かれている

正徳3年4月25日。稲荷の正遷宮が末社ともに26座で申(午後3時)に始まり寅(午前3時)に終わる。御名代は周防守が勤める。巻末に記す。五郎太様からは石黒三郎左衛門が勤める。姫君様からは肥田孫左衛門が勤め、銀5枚を稲荷へ、3枚ずつを山王天神…

思ったより安いもの

正徳3年4月22日。17日頃、八事の大日の白毫(仏の眉の間にある白い毛)を盗み去られた。先年も盗まれており、2、3両のものと云々。

お見事

正徳3年4月21日。橘町の芝居は新十二段・東門出・稲荷御利生という狂言で、立田と勘九郎の2人を称える。

得する人もいるんだ

正徳3年4月20日。巳半(午前10時)前、祭礼が行われ、夕暮れに終わる。町廻御目付は永井太郎左衛門・浅野弥一右衛門が勤める。押乗は土岐甚右衛門・遠山所左衛門が勤める。明暦元乙未年に22日になって以来、今度初めての祭礼延期であった。元禄元辰…

欠陥工事じゃないですか

正徳3年4月19日。稲荷の舎塀がまた崩れる。あちこちで度々崩れる。もっぱら出雲守様(松平義昌)逝去の噂が出回る。嘘であった。

どうしてだ

正徳3年4月18日。御次廻り御目付坂井伴助が自殺する。近頃、奥向きのことで叱られ、少しの間引き込んでおり、赦されてやりかけの仕事を片付けた。この日長屋へ帰り、日頃から嗜む酒を気持ちよく頂き、腹と胸を突いて死ぬ。

雨で延期のようですね

正徳3年4月17日。祭礼が延期されている間、日に3度ずつ吉見が束帯で出仕する。

時代劇のイメージだと武士に刃向かうなんてありえないのですが

正徳3年4月16日。舞楽は巳(午前9時)過ぎに終わる。文左衛門はこれを見物する。呉服町に薦僧が揃い、巳(午前9時)過ぎに新左衛門の弟大津丹治郎と太左衛門の子林甚五左衛門が見物していると、桑名町の下西鍛冶町の大工治兵衛の子吉左衛門という浮気…

角右衛門さん、よくぞ頑張った

正徳3年4月15日。一季居(1年奉公した)奉公人は他所の者であっても抱えるようにとの廻文がある。近頃、蠏江角右衛門に今月の稲荷正遷宮の準備の者が300人になるので、その朝食、夕食、夜食を古渡の百姓に申し付けるようにと。角右衛門はそれに応ぜ…

廻向は送る人、経を読む人ともに浄土へ導かれます

正徳3年4月13日。今朝、照光院で四十八夜惣廻向が行われる。

古渡の稲荷

正徳3年4月12日。巳(午前9時)刻、周防守、靭負、肥前守、野呂瀬内記、鈴木新兵衛、高木十右衛門、佐藤弥平次、中西甚五兵衛が新たに建った稲荷を見廻る。

この複雑な男女関係は

正徳3年4月11日。中西甚五兵衛は名古屋に戻る際、伊奈川で牽いていた馬が飛び跳ねて深い谷の中に落ちた。一緒にいた口取1人も谷に落ちたが、中段で留まった。馬はとても深い谷に落ち、どうしようもなかった。この時、伊奈川の橋の修復のため詰めていた…

川が増水すると渡れない

正徳3年4月10日。戌(午後7時)過ぎ、高田新蔵が名古屋に到着する。7日に到着するはずであったが川の増水のため。4日、隼人正が犬山に到着する。翌5日に名古屋に到着する。

もったいないお言葉

正徳3年4月6日。卯半(午前6時)、万五郎様が文左衛門の町を通り、木曽路を江戸に向かわれる。中村又蔵は馬2匹、借槍1本で御供をする。養父碩雲が一昨日亡くなったが、今日又蔵が出発した後で亡くなったことにする。御歩行衆を雇い、五十人目付関留市…

食事の提供など大変だ

正徳3年4月2日。小塚から天神が遷座する。御代官衆から惣支度を申し付ける。3度とも吉見も森本も御供であった。3度とも塩水を打ち、散米(神前にまく米)は3石あまりになる。