2025-02-01から1ヶ月間の記事一覧
正徳4年1月28日。買留は8分、両に6斗。引起は6斗2升。※こういう表現の際の8分とは8割を金でということみたいです壱岐守の米は近頃5斗2升。
正徳4年1月27日。辰刻(午前7時)、法事で三百部が始まる。名代は甲斐殿が勤める。御馳走奉行は間宮造酒之丞・山田治太夫・箕形善左衛門が勤める。惣門は成田藤右衛門・五味市右衛門が勤める。三門は飯嶋藤十郎・安藤甚左衛門が勤める。裏門は津田平次…
正徳4年1月26日。百ヶ日の法事の廻文がある。
正徳4年1月25日。昨日夕暮れ頃、禅寺町西側浄土宗随宝寺の杉の木のうつぼ(靭、空洞のこと)から火が燃えだし、枝葉を焼いた。火事だと騒ぎになった。この日法事があったので供の者が煙草の吸がらでも入れてこの如く。
正徳4年1月21日。近頃、名古屋の船頭が紀州の船頭を船でからかい、踏み倒して木で睾丸を叩きのめして殺してしまう。紀州の残りの船頭4人は怒って帰らず、裁許を待った。しかし、船頭が蘇ったので詫び言で済ませた。
正徳4年1月24日。萱屋町観音院で四十八夜が行われる。近頃、巾下で管楽の者の子と町人の子が相撲を取り、その上で町人の子を切る。しかし、和睦で事を済ませる。
正徳4年1月21日。酉半(午後6時)、東の方角が赤くなり、火事だと人々が騒ぐ。蕨山で火事かと。
正徳4年1月19日。甲斐殿の米は両で5斗3升。壱岐殿の米は5斗5升。文左衛門たちの米も5斗8、9升と云々。切賃(手数料)は1両につき30文。
正徳4年1月18日。瑞祥院様(徳川吉通正室)が名古屋へ移られることをこの日公儀に知らせる。
正徳4年1月17日。志水甲斐が京から帰られる。口宣(くぜん)を江戸へ持っていく。五十人は諏訪部勘左衛門・梶川惣左衛門。
正徳4年1月16日。この夜の頃、清水門頭小笠原孫左衛門の足軽浅井甚右衛門が女房を清水の町屋で大小刀で殺し、裏の竹垣を破って足跡を付けて他人が行ったふりをする。足軽は出家するするため頭に暇を乞うと、頭もどうも疑わしいことを幸いに、詮議もせず…
正徳4年1月15日。御屋形で森友碩が30石五人扶持で御医者に召し出される。初めは市川文左衛門の家来で、今は外科の町医であった。後に名を賢哲と改める。
正徳4年1月14日。おといち・若いちの両盲人が尾張を出発し、江戸へ行く。昨年冬に召されたため。この両人は円覚院様(徳川吉通)の時に江戸へ行った者であった。
正徳4年1月11日。評定所へ5つ(午前8時)から4つ半(午前11時)頃までの間に諸役人は出向く。一役一人ずつにかため(契り)の申し渡しがある。五十人目付判元の輩もこの日4つ時(午前10時)から7つ(午後4時)頃までの間に出向く。手紙坊主衆…
正徳4年1月9日。日下部郷左衛門が安芸より帰る。行き帰り供に陸路を通る。公は短気で、その他にもいろいろとふざけられる。羽田野弥五兵衛も叱られ、近頃参上すると言いながら参上しなかった。この日までは出頭(地位の高いところに出向く)されるので、…
正徳4年1月1日。快晴、穏やかで暖かい。文左衛門は卯(午前5時)前に家を出て御頭親子へいつもの通り逢いに出かける。その途中、朝の内は裏付(草履)でもおおよそよかった。巳(午後9時)過ぎに再度出かけた際は草履でちょうどよかった。正徳4年1月…
正徳3年12月25日。この頃のことか(あるいは11月とも)、贈官の位記(位階を授ける文書)口宣(勅命を口頭で伝えること)を成瀬織部が建中寺へ持参して渡される。五郎太麿とある。
正徳3年12月30日。高力七兵衛が28日に尾張を出発する。奉書を紀伊守に渡し、直ぐに帰る。甲斐が京へ入る時に途中で出会う。馬場船越は伝奏衆へ音物を持参する。午正月11日、甲斐が勤める。同日、勅答がある。同13日、九条様へ出向き、言伝を述べ…
正徳3年12月29日。辰(午前7時)頃、実母様が御徒(引っ越し)。祝儀の使者は志村忠左衛門が江戸よりやって来て勤める。
正徳3年12月28日。定光寺・建中寺へ歳暮の名代がある。
正徳3年12月27日。任官に付、建中寺へ名代野呂瀬内記、定光寺へ石川一学が勤める。
正徳3年12月25日。伊東大和守よりの使者が建中寺へやって来る。辰刻(午前7時)、禁裡への使者を吉原甚大夫が勤める。以下同人が勤める。同日申半(午後4時)、勅答(天皇が臣下に答えること)がある。この引次に法皇御所女院のところへ使者を勤める…
正徳3年12月23日。文左衛門は米12石を来年までの延べ(清算)で彦六に売る。5斗9升替えで今は6両1分5匁6分を請け取る。正月に1両、4月に13両受け取る予定である。昨朝、芦町の町人が大不孝(親不孝)なことがあって牢に入る。
正徳3年12月22日。近頃、大寄合触流荒川次郎九郎が贈官位の御礼に上京する。日を聞かず。
正徳3年12月21日。今晩、五十人柘植彦兵衛・柴山文助が江戸を出発する。任官の奉書ならびに公の状を持って名古屋へ上る。27日巳刻(午前9時)に野呂内記へ到着する。翌正月3日に出発し、江戸へ帰る。
正徳3年12月20日。近頃、山澄主悦屋敷で家来が酒に酔って暴れ、傷つくと云々。
正徳3年12月19日。文左衛門は夕暮れから風声、源兵・八郎右を呼ぶ。酒が三巡した後巾下で火事と云々。このため客も帰し、文左衛門も出向いたが、火は既に鎮まっていた。御多門に出向き、しばらくここにいて、修理殿が帰られてから帰る。御深井構えの中…
正徳3年12月18日。11日に家督の御礼を申し上げた祝儀に、21日、22日の間に頭へ出向くようにとの廻文がある。夜8つ(午前2時)頃、津嶋橋の東、片町杢右衛門の家から出火する。30軒ほどが焼失する。翌朝卯(午前5時)頃に鎮まる。杢右衛門は…
正徳3年12月17日。今朝、吉原甚大夫が京へ出発する。25両を拝借する。家督の御礼であった。桜の町上る西側伊勢町御金具餝(飾)屋伏見屋の八兵衛と実父権兵衛と八兵衛弟16才の以上3人が牢に入る。八兵衛は七人扶持で、権兵衛は八兵衛の向かいに住…
正徳3年12月15日。逝去後、城では御城代衆は交代での泊番があった。御小姓立(小姓あがり)は昼夜とも城で番をしていた。ただし新御番頭は1人ずつ夜だけ番をしていた。五十人頭・御歩行頭・御側足軽頭は1人ずつ昼の間勤めていた。ただ今まで続いてい…