2024-03-01から1ヶ月間の記事一覧
宝永5年10月30日。近頃、若宮の内膳が死ぬ。弟大学の願いは叶わず、京へ帰る。無住の間、当分吉見兵部に預ける。
宝永5年10月27日。本丸の番加藤紋左衛門は夜に中風となり、言語が聞こえず足が立たなかった。鉄門まで背負われて出た。相番は小川善兵衛、井上文右衛門。
宝永5年10月26日。都筑伝左衛門から手紙が来る。京で茶屋加右衛門が町奉行所に出かけ、頼んできたと云々。尋者のことであったので、加右衛門を連れて伝左衛門は両奉行所に出かけ、判を押した。京に9日滞在し、19日に大坂へ行き、23日頃有馬あたり…
宝永5年10月23日。大銭適用の廻状が来る。蔵の買留4分。値段は1両で9斗2升。
宝永5年10月22日。近頃、梶又左衛門が死んでしまう。少し前、飛騨守は在所より戻られ、気分もよかったので6日に出仕する。帰宅後スメという名の13歳になる竹腰民部妻である嫡女が死んでしまう。少し前から疳(ひきつけ)の病であった。坂下大光寺借…
宝永5年10月20日。文左衛門は辰半(午前8時)に平左と源右へ出かける。そこへ儀兵もやって来る。江戸からやって来た書付を渡される。その内容を伝左親類衆へ申し伝える。ただし伝左一家衆に尋ねに出るようにとの頭からの指図はなかったと云々。儀兵衛…
宝永5年10月18日。瑩珠院様(三代綱誠夫人)の17回法事が始まる。出家40人、馳走奉行は沢井織部・宮永内左衛門。惣門は石川伴大夫・大塩岡右衛門。三門は野呂瀬半右衛門。年寄衆に会うため伴大夫は番所から出ようとするが足が立たなくなり、駕籠に…
宝永5年10月17日。文左衛門は昼過ぎ平左と源右へ出かける。そこへ儀兵もやって来る。理右は昨日戻ったが、このことは小頭へは話していなかった。戻っていないことにし、早々他へ尋ねに出かけるようにと云々。伝左は心得たもので又左衛門が見つかるまで…
宝永5年10月15日。徳山七郎次郎が留書となる。御目見ではないので切米割で渡される。
宝永5年10月7日。伝左衛門は願いの通り京大坂へ出かけてよいと小頭が申し渡す。理右衛門は京大坂、伝左衛門は江戸・京大坂と願い出たところ伝左衛門だけで済ませる。理右衛門も病気が治り次第、三州あたり猿投など尋ねるよう申し渡す。京大坂へ出かける…
宝永5年10月6日。志水八大夫と牛込茂右衛門弟2人の3人が豊場近所の能田村へかへどり(替取、川などせき止めて魚を獲ること)に出かけた。細野仙右衛門・小笠原源太左衛門・佐枝新兵衛3人の知行であったので3人に断りを入れ、その上新兵衛の手紙をも…
宝永5年10月5日。昨日の夜、相応寺東の下馬札が何者かの仕業で無くなる。文左衛門が思うに近所の悪党村瀬彦蔵・成田林蔵などの仕業か。
宝永5年10月4日。都筑伝右衛門が小牧から家へ戻る。
宝永5年10月1日。辰(午前7時)過ぎ、地鳴りがする。宝永5年10月13日。寅刻(午前3時)、地鳴りがする。宝永5年10月25日。亥(午後9時)過ぎ、地鳴りがする。宝永5年10月26日。亥(午後9時)前、地鳴りがする。宝永5年10月27日…
宝永5年10月13日。巳(午前9時)前後、曇って風が吹く。時に雨が降って止む。その後、晴れる。宝永5年10月14日。晴、申(午後3時)から曇る。宝永5年10月18日。風が吹き、砂を舞い上げる。宝永5年10月19日。時々曇り、夜中から雨が降…
宝永5年9月26日。伝左衛門にまた江戸から問い合わせの書付がやって来る。大略は又左衛門は道具などを密かに隠し置いていたのかと。8ツ時(午前2時)から明け方まで間、どういうわけで家や詰めた者は見廻りや覗くことをしなかったのかと。新たに又左衛…
宝永5年9月25日。亥8刻(午後10時半過ぎ)、白壁町須貝惣右衛門の馬屋が焼失する。当時惣右衛門は高須にいた。馬屋で水風呂(蒸し風呂)をしていたが、側に大豆葉があってこれに火が移って火事になったと。
宝永5年9月24日。今朝、武兵(平)町水野彦四南の方ではばき(脛に付けた布)を付けた無刀の者が、行き倒れて死んでいた。
宝永5年9月23日。伝左衛門は三州あたりを尋ね、この夜は熱田に泊まり、明日朝信濃路に向かうとの手紙である。
宝永5年9月22日。今日初めて文左衛門が聞いたことだが、先年大竹天外を殺した僕の請人は志賀の者で大田小兵衛の百姓であった。請人は僕を探し出せなかったので所へ預けられたが、病死した。塩漬けにし、いまだに所に預けられている。
宝永5年9月21日。近頃、権内・弥左・同妻・安之丞・半之助・文助、その他召仕の数多くが疹(はしか)を煩うが、いちいち記さない。夕暮れ過ぎ、末広町尋声寺の向かい願人祢宜刀根忠大夫の家が少しばかり焼けるが、すぐにおさまる。幣に火が移り、他へ燃…
宝永5年9月17日。理右は昨日戻って来て、今日また勢州へ尋ねに出かける。
宝永5年9月15日。巳(午前9時)過ぎから文左衛門は弾之右へ出かける。義兵・三郎左も現れる。野崎村の願いにより免を申し付ける。3ツ8厘で昨年と同じ。十右衛門・清八が免状に判をする。吸物・酒などを頂き、文左衛門たちは未(午後1時)前に帰る。
宝永5年9月14日。理右・伝左が尋ねに出かけた訳を、田島儀兵衛はすぐに目付長屋半左へ出かけて報告する。彦兵衛殿からは報告する必要はなし。伝左の宿から手紙がやって来る。鳴海まで行ったところ勢州加取というところに少々手がかりがあるので向かうと…
宝永5年9月13日。今朝、小頭が伝左のところへやって来て、昨日書付が出されたので今日中に早速尋ねに出かけるようにと云々。伝左衛門には仲間からの援助はなかった。理右・伝左ともにわざと槍を持たせず、伝左・理右ともに江戸・京・大坂へ行く場合は名…
宝永5年9月11日。未(午後1時)過ぎ、伝左衛門は他所へ尋ねに出かけるようにと申し渡しがあったけれど、昨日の書付で言われた返事の書付を差し出して出かけるように云々。伝左衛門が出した書付の大意。24日、大工が4人やって来て、牢を作るため作業…
宝永5年9月10日。巳(午前9時)から段之右・三郎左が文左衛門のところにやって来る。義兵は理右が先日出発となったのでやって来なかった。伝兵衛・平右衛門のほか惣百姓、確認のために組頭の勘右衛門百姓孫左衛門・次郎兵百姓伝左衛門を呼んで申し渡し…
宝永5年9月9日。文左衛門は朝方々へ礼に出かける。理右衛門は願いの通り領内ならびに他領へ尋ねに出かけたいとの願いが済み、戌(午後7時)過ぎに源右衛門・伝左衛門のところに返事が来たので、理右を呼び寄せて申し渡しがある。平左と文左衛門が立ち合…
宝永5年9月8日。佐藤治左衛門が20日間の準備で江戸へ呼ばれ、28日に出発する予定である。少し前、馬書を提出したため。
宝永5年9月7日。亥刻(午後11時)、九十軒町で辻雪隠1つが燃える。放火であった。藁萱の中に塩硝などがあったと。