名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

藩の恥をさらされては困りますから

正徳6年2月30日。但馬様(松平友著)へまたまた上野小左衛門が出向いたが、病気とのことで逢わなかったと云々。公から使いのようでもあり、年寄衆からの口上のようでもあり、仰せられたことを尾州の役人に申し聞かせるように云々。ただし、但馬様の返事…

わざわざ2階で放火?

正徳6年2月29日。申(午後3時)頃、本町七丁目西側革屋の裏から火が燃え上がろうとしたが、すぐに消し止める。2階から火が燃え上がろうとしたので付火と云々。

内証とくれば言えない訳があるのだけどバレてる

正徳6年2月27日。五十人野田右衛門九郎に小頭が内密に話をして暇を出す。4、5年前に召し出され、江戸勤めも2度ほど行ったが、仕事に身を入れず、怠け者な上、酒狂いであったと。

自業自得

正徳6年2月24日。近頃、壱岐守(竹腰)知行所吉田(きつた)村の百姓が年貢の他にかなりの金銭があることを訴えたので高田孫四郎・吉村十内など目付が立ち合い、百姓とともに詮議がある。近頃、妻木で妻木民部家来家城(かぢやう)友右衛門が百姓に叩き…

牢に入った人の面倒は雇い主や住んだ町で面倒みるんですよね

正徳6年2月22日。相原小左衛門召仕の牢米はこの日限りで、明日からは遣わさない予定である。十次左召仕はこれより先に止めていた。

文左衛門は恵まれています

正徳6年2月17日。夜、定介がやって来て、文左衛門に平兵衛殿の死去を告げる。葬儀の道具などはなく、所で一時的に借りたと泣きながら話す。このため金1両2分を遣わす。

仕出し弁当の始まり

正徳6年2月19日。申(午後3時)頃、深沢次郎左衛門の長屋から火が出るが、屋根へ燃え上がらないうちに鎮まる。この風で火が燃え上がれば消し止められなかったはずで、これは幸いであった。文左衛門も源右も辻まで出かけたが、往来には人があふれていた…

こういう文章を読むと武士って暇だなあと思います

正徳6年2月15日。巳(午前9時)前、文左衛門は風笑へ出かける。そこから玉相へ出かける。油豆腐などいろいろなもので酒を頂く。涅槃像を見てから風笑と一緒に性高院・大須・七寺・山王へ出かける。通い所で持ってきた弁当を食べる。如月西趣とも道で会…

これも困窮のためか

正徳6年2月12日。加藤紋大夫召仕の男が長屋で自殺する。片肌を脱ぎ、喉を切る。阿部豊後守が熱田に泊る。結納の使者であった。河村縫殿が供応に出向かれ、翌日佐屋から海を渡る。

なぜに、こんなことを

正徳6年2月10日。隼人正家老小笠原金大夫は以前眼の病気で小池奥左より前に引き込んでいた。昨年9月の頃か、隠居を願い出た。子に250石をと仰せ付けられたが何やら不満で、その後書置をし、子を連れて行方をくらましたのを内密に呼び戻した。不満で…

この稲荷は山王稲荷

正徳6年2月9日。初午稲荷祭で稲荷へ馬代黄金1枚、山王天神へ銀3枚、御用人衆が名代を勤める。米は両で5斗5升。銭は1分で776文。

身につまされる

正徳6年2月8日。一昨日の頃のことか、牧野勝左衛門兄の牧野佐次右衛門が七間町の牢で死ぬ。初めは御台所の包丁人で、20年前に乱心していた。甥の水野分四郎手代樫原甚右衛門やその他親類で預かっていた。佐次右衛門、勝左衛門ともに甚だ母親に親不孝で…

松平友著さんはもうかなりのお年、年寄りは面倒なんです

正徳6年2月7日。三の丸天王裏の大榎が北から少し東よりに倒れて堀を崩し、道路を塞ぐ。この榎は天王社で一番の古木であり、根は少々腐っていた。地上1、2尺(1尺は約30センチ)だけ残り、折れてしまった。巳の刻(午前9時)頃のことであった。その…

お勤めご苦労様でした

正徳6年2月6日。勘太夫が養生のため江戸を出発する。久次郎が従う。結納の褒美として内藤喜左・小笠原三九へ黄金1枚ずつ、魚住半右衛門・安藤加兵衛・小笠原与一兵衛へ銀3枚ずつ、御祐筆の中で小田切三左衛門へ3枚、小沢甚蔵・池田孫兵次へ2枚ずつ。

文左衛門は間違いなく観に出かけてる

正徳6年2月5日。橘町で操りが行われ、演者は大和彦大夫、演目は新百人一首。山田善左衛門が尾張を出発する。

帰りはのんびりしてます

正徳6年2月3日。文左衛門は朝飯を頂く。その後部屋で吸物で酒を頂く。昼頃、水野を出発し分四と歩いて帰る。はばき坂で酒を頂く。大森の庄屋のところで持って来た焼飯を頂く。

文左衛門が急いでいる様子が伝わる

正徳6年2月2日。文左衛門は急に思い立ち、水野へ出かける。王余魚(カレイ)を5枚持参し、途中小便をすることもなく、まして立ち止まって景色も見ずに。水野へは未半(午後2時)に到着する。文四郎はこの朝に出かけており、既にその場に来ていた。勘太…

名古屋の出来事ではないですが、興味深いので

正徳6年2月1日。麹町8丁目の湯屋で放火による火が出て、大騒ぎとなる。湯屋では戌(午後9時)から男は全て外へ出し、町の女房や娘などが湯屋へ入るのはどこでも同じこと。女ばかりが入浴客が慌てるうちに、着るものや湯具まで盗人がひっくる返し、盗ん…

正徳6年2月の地震です

正徳6年2月14日。寅半(午前4時)、地鳴りがして地震がある。その後また少し揺れたようであった。正徳6年2月17日。丑半(午前2時)過ぎ、地鳴りがして地震がある。地鳴りは大きく、揺れは小さい。

正徳6年2月の天気です

正徳6年2月1日。晴。1日中寒い。正徳6年2月2日。寒い。晴天。正徳6年2月3日。薄曇。時に晴れる。申(午後3時)から曇る。申半(午後4時)頃、文左衛門が家に帰ると雨が降り出し、夜も降り続く。深夜から雨が止む。正徳6年2月4日。晴。風が1…

3分の勤めって金を出せってことなんでしょうか

正徳6年1月28日。文左衛門などへ3分の役務を勤めるようにとの書付を申(午後3時)頃に元右のところで申し渡す。御下屋敷奉行・運上奉行。加藤久兵衛・高野覚兵衛などもこれを勤める。巳(午前9時)過ぎ、永国寺の側で火が出る。すぐに消し止める。役…

ということは御屋形手代は1人だけ

正徳6年1月25日。御屋形手代3人の内、昨年冬伊藤勘左衛門は呉服方御納戸の手代となった。近頃矢嶋戸大夫は大道奉行の手代となった。甚だ困窮と。

悲しみはなかなか消えない

正徳6年1月22(23)日。文左衛門は父母のことを思い、姿や声がそばにあるように思える。

昔は稲の収穫の後で藁を燃やしてましたね

正徳6年1月21日。酉(午後5時)過ぎ、火事だと騒ぐので文左衛門が出て見ると、東南の方角遠くに火が見えた。山に火を放ったと々。しかし、役人衆は建中寺前などまで延々と続いていた。久次郎が後日やってきて話したところによると、水野でも巳午(南南…

誰かが値をつり上げている

正徳6年1月16日。この日江戸からの手紙には、昨年冬12月12日に名古屋を出発した後、今まで雨も雪も降らず、風が吹き荒れて土煙が立ち、寒さ厳しく、硯の水も凍ってしまう。そのため毎日火事があり、町中で道具などを穴倉に入れ、今か今かと備えてい…

これで儲かるのか

正徳6年1月15日。近頃、国元から積み出す船の運上(税)から1両につき9分ずつ貰えれば、春秋2度6000両を差し上げ、その上、荷物を失くしたら料金は取らず、その上遭難したら弁償すると江戸の者が願い出た。

こういうことが遺恨になる

正徳6年1月14日。9日、天野源蔵は名を治部と改める。先祖の孫七郎は晩年子の助兵衛に名を譲り、孫七郎と名乗らせ、自分には治部と。祖父惣左衛門は故あった近衛様に奉公していた。その際に治部亟と名乗っていた。大道寺宮門は昨年冬の御小姓立源太役替…

文左衛門、実は母親思い

正徳6年1月13日。辻番銀が今後100石に付き10匁ずつ出るとの書付を御屋敷奉行からそれぞれに配られる。夜中に死んだ母親が夢の中で注子(急須)を持って椽前に立っていた。声も姿も昔のままで文左衛門は涙があふれた。

そんな人の息子を養子にしたの

正徳6年1月12日。小川惣左衛門が55才で死ぬ。養子は佐々木岡右衛門次男理右衛門であった。小川三太郎と名を改める。岡右衛門は乱暴者で無理無法は言うに及ばず、とにかく争いごとが絶えなかった。この日のことか、建中寺の母が死に、相応寺三昧(墓所…

白鳥方って木材担当か

正徳6年1月11日。江戸で後藤半左衛門が白鳥方となる。15日に江戸を出発する。