名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

2024-08-01から1ヶ月間の記事一覧

失敗して学ぶもの

正徳1年8月29日。文左衛門は本屋座敷の棟を裹(包)む。屋根葺は100文ずつ3人、手伝い3人。以前は拵え置いた薦で組んだが、雨が漏るのでこの上を俵薦で覆った。今後は俵薦か編んだ藁を用いるべきと思われる。1分の麦殻は大分余ってしまった。

哀れといえばいわれだなあ

正徳1年8月28日。上田伴右の草履取が明朝に供に間に合わないと家に戻る暇をもらったが、家に行かずに在所の西条へと出かけた。その夜寅刻(午前3時)に家を出たが、日頃から酒を好みんでは酔っ払ってばかりいた。途中で木綿を持っている者に出会い、脇差…

もしかして奥田主馬が城内で女中に刺されたことと関係があるのか

正徳1年8月25日。早朝、飛騨守は家来を多く連れ、旅装束で馬も2匹率いて登城する。半時(約1時間)ほどして出てくる。坊主衆に直ちに寺部へ行こうと思ったが、気分が少しすぐれないので屋敷へ帰るのでいつものように迎えに来るようにと云々。何事かわ…

かなり大きな風水害

正徳1年8月20日。6月4日から8月23日まで諸国の大風による損亡を集めて記す(愛知分以外は略)。一 松平主水4千石三州西郡。8月23日酉刻(午後5時)から丑の刻(午前1時)までの風雨で塩が入り込み損亡する。田畑3407反(1反は約1000…

一代で地位を築いたのだから大した人物

正徳1年8月20日。夕暮れ前、文左衛門は主馬葬礼のため東月院へ出かける。多くの人がが列をなす。いずれにも断りがあり、文左衛門なども帳に付けて帰る。戌(午後7時)頃、相応寺東月院へ棺が着く。右門と野呂瀬内記が馬と乗物で供をする。見物も多かっ…

確か屋敷を造るんでしたっけ

正徳1年8月19日。昨日から勘太夫が承り、九条様の用務で林方(山林を管理する職務)の松の木777本の皮を剥ぎ取り、毎日車で切組(材木)小屋へ運ぶ。

尾張の柳沢吉保死去

正徳1年8月18日。昼頃、主馬殿死去する。公の耳に入り、知れ渡る。

江戸時代の90歳といえば今なら150歳ぐらいか

正徳1年8月17日。石臼屋清左衛門のところで酒を頂く。空三は90歳で、耳は少し遠くなっているほかはあまり衰えていない。文左衛門は吉歌を書かせて持ち帰る。女房の比丘尼は80歳と云々。主馬殿は昨日から病状が進み、未(午後1時)頃死去する。轟竹…

まっとうな将軍様のご意見

正徳1年8月15日。八幡祭が行われる。天気のため、八三郎様桟敷の方は戌(午後7時)過ぎにお終いにされる。左の書付は城で大久保加賀守が言い渡される。尾張では石川靭負を城に呼び、渡される。各地を巡検した報告で国・郡の治世について将軍のお耳に入…

文左衛門にとっては残念

正徳1年8月12日。夜、火事の噂がある。大須での芝居は行われず。

仕事が苦になったか

正徳1年8月2日。近頃、遠山所左衛門の足軽が川並へ出入(?訴訟)に出かける。駒塚で身を投げて死ぬ。

正徳1年8月の徳川吉通の動向

正徳1年8月5日。建中寺へ参詣する。

正徳1年8月の天気です

正徳1年8月1日。晴。蒸し暑く、堪えがたい。正徳1年8月2日。蒸し暑い。正徳1年8月3日。蒸し暑い。正徳1年8月4日。朝、霧が出る。日の光は銅色。正徳1年8月5日。朝、少し霧が出る。正徳1年8月6日。晴。ただし時々曇る。わずかに雨が降る。…

相手の希望なら仕方がない

宝永1年7月29日。対馬守宿見の希望で大光院の寮(寄宿所)を打ち抜き、また町屋5軒を通事(通訳)の宿にし、起でも多くの作業がある。一昨日28日、江戸で熱田大宮司・一の宮・津嶋の神主は暇を済ませる(暇を許される)。

7月9日入院の結末、でも阿弥陀寺は

宝永1年7月26日。高岳院へ阿弥陀寺が入る。

では高岳院には誰が

正徳1年7月9日。性高院を相応寺へ、高岳院を性高院へ入院(住職とする)と言いつけられる。

朝鮮人通行の下見

正徳1年7月25日。宗対馬守の宿見番頭の幾度一右衛門・嶋雄菅右衛門・千代田井格右衛門は昨夜起に泊まり、この日は南寺町7ヶ所を見廻る。この夜は鳴海に泊まる。

余計なことを言った町人も悪いなあ

正徳1年7月23日。巡見衆大目付兼道中奉行1290石松平石見守乗宗、勘定殿詰組頭300俵萩原源左衛門、勘定衆柘植兵太夫は昨夜起に泊まり、今夜鳴海に泊まる。近頃、横地仁兵衛支配所板取の百姓金屋村の藤兵衛が巣鷹(巣の中にいる鷹のひな)のことで…

惣打は殿が名古屋にいる時期の6月から7月に行われていました

正徳1年7月21日。惣打が行われる。成瀬修理が出向く。亥(午後9時)頃に終わる。文左衛門は文四・弥次右と辰半(午前8時)からそれぞれ弁当を食べる。壱町人形・田村矢(大筒から打ち出す火矢)などを見物し、未半(午後2時)に帰る。数打と国友の2…

これって大事件では

正徳1年7月20日。奥田主馬は気分がとてもすぐれず、御下屋敷から布団に包まれ、乗物でようやく帰宅する。公の女中が刺すと云々。

東海道を通るようです

正徳1年7月19日。韓人の来聘につき、江戸へ行き来する輩は木曽路を通るようにとの廻文がある。

これは見物したい

正徳1年7月16日。近頃、御下屋敷で毎夜花火・流星(尾をひいて流れ落ちる花火)がある。

何もないその他は可哀そう

正徳1年7月15日。鉄砲打四宮元右衛門父子・小川安右衛門の3人は褒美として銀子を得る。他の3人はお褒めにあう。残りは何もなし。

芝居のチェック

正徳1年7月14日。大須で十三郎の狂言が行われる。他に芝居が2本。座頭の軽業・12、3歳の一眼童子(眼がひとつの妖怪)。

朝鮮人の通行も大変だ

正徳1年7月13日。近頃、町に中番(辻と辻の中間にある番所)が朝鮮人のためにできる。

尾張に戻ったわけは何か

正徳1年7月12日。少し前に逐電した出雲守様(松平義昌)歩行の石川豊ノ右衛門が尾張に現れる。巾下の屋敷で詮議があり、その後暇を下される。

用心はしていたのだろうけれど

正徳1年7月11日。朝鮮人来聘につき、公儀から廻文がある。使いを仰せ付けられたところの供番一二三番まで急に病気となり、勤めることができなくなった。飯田源一が急いで行って勤めたが、既に領内を過ぎており、間に合わなかった。後に大塩伝九郎・高木…

これも朝鮮人関係ですかね

正徳1年7月8日。甚太・新六は鳴海から境川まで見分する。

この鹿は食用ですか

正徳1年7月3日。吉原甚太・中根新六は起ならびに墨俣まで見分に出かける。墨俣で1泊し、4日に戻る。朝鮮人用の鹿を生け捕りにするため山法師が山から追い出し、尾かね(小金?)山で7頭を棚落しで獲る。その内3頭は生け捕りにする。列卒(勢子)は1…

正徳1年7月の徳川吉通の動向

正徳1年7月5日。建中寺へ長上下で参詣する。日傘を五十人頭一色六左衛門が際差し掛ける。ただし差し掛けたのは帰りの際。正徳1年7月12日。巳半(午前10時)、御下屋敷に出向き、逗留する。正徳1年7月16日。お忍びで大曽根下屋敷に入る。梶川市…