2024-06-01から1ヶ月間の記事一覧
宝永7年5月30日。近頃、貴賤、上下を問わずまた疱瘡が大流行する。死ぬ者が頻繁に出る。
宝永7年5月28日。熱田堤に死体が流れ寄った。野袴を着ており、わけがあるようで、顔は爛れて膨れていた。少し前、四日市から志州鳥羽へ海を渡った板倉(欠字)家老と縁のある者が、小便をするといって海へ落ちたのがこの死体であったが、難しい問題があ…
宝永7年5月25日。条目が廻る。星野七右衛門が狼猟に出かける。三郎兵衛は近頃戻っていたので、その代わりであった。今朝、馬廻の高岳院大門前西南角中村牧右衛門が寝屋から起き出た。あたりに人がいない時、妻が起きて長持ちを開け、守脇差を取り出して…
宝永7年5月22日。霊屋が出来上がり、北の境に杉などを植えたので、甲斐の座敷の前はとても狭くなり、殊の外暗くなってしまった。これは気にするほどではなかったが、公が来られると特に覆われて暗くなるので、北の方の空地を拝借したいとの願いがあった…
宝永7年5月18日。杉村の下条庄右衛門の百姓が竜泉寺へ馬の頭を出した。小畑で他の馬頭が棒を使うのを見て、棒を欲しがった。この者が言うには、こっちへ来いと云々。杉村に見知った者がいて、あれは乞食だ、どうしてこっちへ来いなどと言うとからかった…
宝永7年5月15日。伝左衛門にはもはや又左衛門を探す必要はなく、遠慮(軽い罰)する必要もないので、前々の通りと心得るようにと。小普請役となるはずであった。御屋形で公儀の条目を深田宗信が読む。墨絵の間に正室、右に隼人正が上座、それから老中が…
宝永7年5月14日。未半(午後2時)、都筑伝左衛門が帰宅する。すぐに小頭に伝える。明朝、小頭衆と一緒に頭へ出向くはずである。
宝永7年5月12日。申刻(午後3時)、武右から手紙がある。都筑伝左は当時三州にいると云々。助六のところから早々に飛脚を遣わし、帰宅次第知らせるようにと云々。田嶋茂兵衛は地廻りをしながら今まで又左衛門を探していたが、最早行わなくてよいと云々…
宝永7年5月11日。昼頃、文左衛門は桑名に到着する。尾張屋十蔵のところで片旅籠(1泊1食)とする。船はすでに到着しており、昼半(午後0時)に船に乗り込む。風がよく、畳の上に座っているようであった。未半(午後2時)過ぎ、熱田へ到着する。汐もよ…
宝永7年5月9日。新金吹き替えの廻文がある。紀州への使いを中村又蔵が仰せ付けられる。真宮様の逝去の使いではなく、入部(紀州に入った)の使者であった。近頃、野呂瀬又左衛門が犬山組の肝煎を12年よく勤めた褒美として、隼人正から黄金3枚を与えら…
宝永7年5月5日。熱田馬の頭は巳刻(午前9時)までに終わるようにとの申し渡しがある。紀伊中納言家が熱田に泊まられ、西御殿に入られる。ただし、供応は請けなかった。中納言の馬は羽織がなく、草鞋を着けていた。道中は大方歩かれると云々。供の騎馬は…
宝永7年5月4日。紀州の船人(センド)どもが名古屋辺りでぶらぶら過ごしており、大須に立ち寄った。船奉行天野孫七が紀侯を待つため一昨日から熱田へやってきており、白子・松坂からたくさん船がやって来ていた。酒に酔って浄瑠璃語り喜兵衛を捕まえて放…
宝永7年5月1日。知恩院宮が熱田に泊まられる。明朝、桑名へ海を渡られる。公から船が出て、使いは番頭。
宝永7年5月5日。朝、天候がよい。巳の半(午前10時)大雨となる。一陣の暴風の後、さっと晴れて晴天となる。宝永7年5月12日。朝の間、曇る。辰(午前7時)から晴れる。暑い。宝永7年5月15日。曇。宝永7年5月16日。晴。時々雲が現れる。子…
宝永7年4月29日。近頃、あちこちで狼が現れる。人を食い殺し、傷つけることがとても多い。昨日朝鮮人が来朝する。先年は道筋の宿や橋、道路のことを東海道の宮までお尋ねがあったが、今回は名古屋、西美濃、江州などの国主・領主へお尋ね書付が届いた。…
宝永7年4月28日。公儀巡見衆使番梶四郎兵衛・小姓組田中一郎右衛門・書院番川口茂左衛門3人は近頃知多に滞在していたが、この朝鳴海を出発し、当町(今の東区)を通る。町奉行は犬堂(犬御堂)へ出向き、そこから大曽根あたりへ行き、待っていた。国奉…
宝永7年4月26日。滋野井宰相公澄卿が熱田に泊まられる。今年の日光例幣使で、去る1日に京を出発し、16日に奉幣を行われた。20日に江戸へ入られた。27日に名古屋を通り、聖徳寺へ立ち寄られ、供応が行われる。濃州筋から京へ上られる。
宝永4年4月25日。尾頭で和泉屋十三郎の芝居が行われる。近頃、山寺甚兵衛草履取森平が新町酒屋新左衛門のところへ盗みに入る。
宝永7年4月23日。美濃谷汲の観音が開帳し、人が集まる。
宝永7年4月22日。文左衛門は役料を井田源助に頼んでいたが、この日に売払う。1両で1石1升8合、この代金は13両3匁8分9厘となる。西門跡が名古屋を通り、美濃路を上られる。
宝永7年4月18日。昨日、二条家が佐屋を通られる。この日、九条様が熱田に泊まられる。明朝、佐屋から桑名へ渡られる。供応などは前と同じであった。2度の進物及び役人へ色紙・綿など下される。
宝永7年4月17日。祭礼が例年の通り行われる。連枝様方が例年の通り見物する。巳下刻(午前10時半)、神輿が出る。旅所へ移るまでは雨が降らず、未上刻(午後1時)の御前から戻る前から雨が降り出す。車・練物などが濡れてしまう。寛文7年は戻る際に…
宝永7年4月15日。春日井郡下飯田村真言宗安国寺の住僧が10日の夜包丁で自殺する。23歳で、安国寺は開帳の最中であった。14日、山田へ行く土橋のかかった下飯田の江川で女の死体が出ていた。喉と足の裏に傷があり、いらという名であった。去年まで…
宝永7年4月11日。納屋裏の小便取が本町門の西の堀端で吐血して死ぬ。
宝永7年4月7日。この夜、鍛治屋町1町目東側の新田庄屋彦八姉の部屋の屋根から火が出るが、すぐに消し止める。放火の噂があり、彦八の下人が牢に入る。
宝永7年4月6日。海東郡諸桑村の地蔵が昨年から少しずつ話題になっていたが、先月から大流行りとなり人が群れ集まる。去年の草鞋と同じであった。
宝永7年4月5日。野々宮宰相定基卿が早追(急使)のように急いで上京する際に熱田を通られる。昼過ぎに熱田に到着し、直ちに船で出発する。用務で急に奏聞(上奏)することがあったと噂になっていた。どういうことだったのか。
宝永7年4月4日。子(午後11時)過ぎ、鍛治屋町石町上る西側の借屋1軒が焼ける。堀田弥五右の裏であった。近衛前大政大臣基凞公が熱田に泊まられる。江戸へ下られ、今年の秋までは江戸に滞在と云々。供応は松平周防守が勤める。
宝永7年4月5日。昼過ぎ、急に乾(北西)の風が吹き荒れる。夜になって鎮まる。宝永7年4月7日。熱田沖は風が吹き荒れて波が立ち、船2、3艘が破損する。そのうち知多郡大野村わたや六兵衛手代勘介が溺れて死ぬ。宝永7年4月10日。雨が降ってまた止…
宝永7年3月30日。新居を通るようにとの廻文が名古屋である。