名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

2024-09-01から1ヶ月間の記事一覧

いろいろと人の行き来があります

正徳2年3月29日。未(午後1時)頃、大道寺駿河守が名古屋に到着する。卯(午前5時)過ぎ、高田新蔵が名古屋を出発し、木曽路を行く。一昨日、内藤喜左衛門が名古屋に到着する。

武士が騒いでどうする

正徳2年3月28日。申下刻(午後5時)、熱田高御堂、亀井道場西の町で民家1軒が焼失する。この日熱田の宿には大名が多く泊まっており、大騒ぎとなる。

大事に至らず

正徳2年3月25日。明け方前、本町筋本重町の北西角鞘師の隠居屋から火が出る。すぐに消し止める。 成瀬隼人正が18日に江戸に到着する。11日に尾張を出発したか。

物騒だなあ

正徳2年3月23日。押切のあたりを巾下の御目見衆が夕暮れに通った。浪人乞食がいろいろ言いかけてくるのを捕らえて田へ踏みつけると、起き上がって足で泥をかけたので、刀を抜いて一太刀切りつけると逃げ去った。この辺りでは最近浪人の姿の乞食のような…

長崎へ戻る途中ですね

正徳2年3月20日。阿蘭陀人が鳴海に泊まる。翌朝辰(午前7時)頃、熱田へやって来て、直ぐに海を渡る。カピタン(商館長)1人、下官は3人、へとる(ヘトル、次長)2人、めすとる(?)1人、長崎通詞2人。与力今村源右衛門などが多くいた。供は20…

先を急ぐ飛脚にはおとがめはないのか

正徳2年3月18日。鈴木主殿の代替りで、同心衆は麻上下で礼をする。吸物・酒が出る。昼頃、石川靭負が名古屋に到着する。阿野で七里の者に行人(行者)がぶつかって口論となったが、行人を切り捨てて通った。昼過ぎにも死んではおらず、うめいていたと云…

所化はゴタゴタの最中で助かった

正徳2年3月15日。近頃聞いた話。久米氏後家で柳原林左妹の日成という尼は妙蓮寺の地家真如院という淫僧とかねてから関係を持っていた。この尼は金持ちであった。真如院は金の世話すると言って多くを自分の懐に入れていた。その上、桑名の浪人の妻と関係…

文左衛門は上方へお出かけです

正徳2年3月14日。文左衛門は明け方に出発する。歩いて久屋下田んぼ道から熱田へ行って参拝し、辰(午前7時)頃船に乗る。東風が少し吹き、船が少し揺れる。桑名が見え始めると雨が降り出し、段々ジメジメする。巳(午前9時)過ぎ、桑名に上がる。雨が…

名古屋へ戻ってこれる

正徳2年3月13日。この1日に相応寺は公儀への跡目の礼を済ませた。9日に暇をと云々。

返り討ちにあったみたいだ

正徳2年3月12日。今月2日の黄昏、長嶋町武藤安左衛門の家の前で侍の中間と乞食が争い、中間を溝へ蹴り落した。町人が出て来てあれこれするも、乞食は町人をつかんで放り投げた。その間に中間は起きて上がり、一太刀切りつけてどこかへ行ってしまった。…

かなり大がかりだ

正徳2年3月11日。近頃、古渡で稲荷社の建設が始まる。鈴木弥右衛門が寺社奉行とともに行う。その後は河村丹左衛門が行う。京にいる大工の中で京の稲荷の様子を調べ、かつ巾下浅間の祢宜三谷若狭も上京する。(以下次)

2月21日に詮議を受けてました

正徳2年3月9日。朝岡丹内は志水甲斐に預け替えとなる。屋敷は没収される。

職務怠慢

正徳2年3月6日。久左衛門の子で犬山組三沢六左衛門が暇を下される。貧乏な上、よくない行いが多かった。

徳川吉通は江戸へ向かいました

正徳2年3月2日。八三郎様・喜子進様が同道し、午上刻(午前11時)に先払いとして出発する。2千石ほどの格式で紋はなかった。2匹の馬、対の槍長柄と槍、具足櫃2領(くだり)ずつ、与兵と兵蔵が代わる代わる警固しながら供をする。八三郎様は江戸で志…

2月に文左衛門が役料米を売り払ったのと同じ値段

正徳2年3月1日。買留は3分で9斗7升。

正徳2年3月の徳川吉通の動向

正徳2年3月1日。4つ(午前10時)に供揃えを行い、昼に建中寺を参詣する。泰心院様廟、霊屋ともに参詣する。八三郎様・喜子進様は公が入る前に本堂に入り、帰られてから参詣する。正徳2年3月2日。未刻(午後1時)過ぎ、駕籠で出発する。

正徳2年3月の天気です

正徳2年3月1日。穏やかで暖かい。深夜から雨が降る。正徳2年3月2日。雨が降り、ジメジメする。未(午後1時)過ぎに雨が止む。正徳2年3月3日。曇。辰半(午前8時)から晴れる。正徳2年3月4日。晴。正徳2年3月8日。朝、曇る。その後晴れる。…

誰が預けたの

正徳2年2月29日。近頃、朝岡丹ノ右衛門に書物を残らず預けて、江戸へ供をした。

だから現金支給だって

正徳2年2月28日。近頃、手形は9斗3升となった。文左衛門は売り損だったか。節句前まで持っておればよかった。近頃、家々で大人も子どもも風をひいていた。

それでも無事戻れてよかった

正徳2年2月22日。戌半(午後8時)過ぎ、両親が名古屋へ戻る。この日船で桑名から1里(1里は約4キロ)程出たところ、風が強くて1時(1時は約2時間)ほど碇を下ろし、その後ようやく漕ぎ寄せたが、潮がなくて小船2艘を400文で借りて熱田に到着…

額が額だからなあ

正徳2年2月21日。朝岡丹内が詮議を石川一学・永井太郎左衛門に受ける。23石の隼人正納戸石坂宅右衛門は200両ほど借金をこしらえたので倅の御目見友弥と共に追放となる。小番の宅右衛門弟十左衛門も改易となる。

跡取りがなければ家は絶える

正徳2年2月20日。鈴木久隠が死ぬ。晩方、八左衛門も死ぬ。八左衛門の子3人は去年までに死んでいた。跡が絶える。

何度も言いますが面倒くさい制度

正徳2年2月19日。文左衛門は役料米を9斗7升で売り払う。

何じゃそりゃ

正徳2年2月18日。柴山百介支配所の濃州下津(シモツ)郡巻田(マキダ)村九右衛門が昼頃竹腰山城守門前を2、3度遍徘徊してから書付を門内こまよせ(駒寄せ)の内へ坳(投)入れたのを門番が追いかけて天王の前で捕らえる。問いかけると百介への注進の…

これは伊勢参り

正徳2年2月16日。両親が丑刻(午前1時)に参宮のため佐屋に向かう。

活気あふれてます

正徳2年2月13日。この日初めて熱田で太々神楽が行われる。見物人が満ちあふれる。五十人目付10人が出向く。この日、大須で十三郎の狂言が行われる。昨年秋の彼岸には行わなかったので。

これも今と同じで人材難

正徳2年2月10日。近頃聞いた話。魚住亀之丞は髪結いの若党を6両で雇おうとしたが全然見つからなかった。ことのほか奉公人はいなくて高値であった。

それらしい記述は11月13日にはないんですよ

正徳2年2月9日。河井分五左衛門は行いが悪く、暇を下される。馬廻水野角太夫は逼塞となる。わけは去年11月13日にあった。右両人へは石川権平のところで申し渡す。

理由も書いてほしい

正徳2年2月6日。高橋主殿は江戸へ出発する。

今の時代と同じで諸物価高騰

正徳2年2月4日。近頃、七ツ寺地家一条院が戸障子まで外して逃げ去った。隠居を願うも叶わなかったので、いろいろあってここに及ぶと。その後、戸障子などを元のように替え、隠居した。石臼屋清左衛門は破産しそうになる。そのため大分金を取って京から婿…