名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

2025-09-01から1ヶ月間の記事一覧

これにて鸚鵡籠中記は終了

鸚鵡籠中記は享保2年12月で終了。朝日文左衛門は翌年享保3年に亡くなります。おそらく酒の飲み過ぎだったのでしょう。ずっと書いてきたのですが用語の使い方など統一性がなく、訂正も加えていないのでハチャメチャになってしまいました。もしお気づきの…

幸せな年の瀬

享保2年12月29日。今年の暮れ、村はとりわけ暮らし向きが良い。肴などをかなり買い、よめり(嫁入り)の道具も多く買い求める。町々も暮らし向きが良い。とりわけ呉服屋・紺屋・革屋などもはなはだ商売が上手くいっている。この秋はあちこちで祭と称し…

こういう文書が出るのは守らない奴がいるってこと

享保2年12月28日。年頭の御礼廻文には7つ(午前4時)に登城と云々。小頭の添文には8つ(午前1時)頃に家を出て、8半(午前2時)までに頭に揃っているようにと云々。

死に目には会えなかった

享保2年12月27日。亥(午後9時)過ぎ、火事の噂がある。近頃あちこちで放火があると。源右は米を4斗7升5合で売り払う。吉田源之右衛門の父が死ぬ。源之右衛門は寒半の使者に行き、28日に勤める。火事のため御目見はなく、奉書が出る。正月6日に…

これも乱心で方が付きそう

享保2年12月24日。巳(午前9時)頃、大塩伝九郎子の勝左衛門は弟が五十人の番に出かけるからと刀を次の間に置いて父の前に出たすきに、その刀を取って弟を切ろうとした。勝左衛門は去年まで日向守様(松平義孝)に奉公していたが、どうやら呼び寄せた…

何度も金をせびるのもおかしい

享保2年12月22日。申(午後3時)過ぎから文左衛門は弥次右へ出かける。30両の頼母子会で半口分を入れる。成田新内・鈴木平次左・代助・蛯江弥左衛門・塩川段蔵と夜食を頂く。鯉の指身・あぢ(鯵)の焼物など。文左衛門は文左衛門の米は4斗8升。1…

宗派を変える変えないでゴタゴタがありました

享保2年12月19日。寺社へ黒印を下される。西本願寺から願証寺の空き地を下された御礼は尾公へ太刀・馬代・箱肴1折・羽二重100疋・御家老へ鞘5巻ずつ・御老中と寺社奉行へ3巻ずつ・中通り衆(中間)へ2巻ずつ・十人組見習までに銀2枚ずつ・御足…

壱岐守の方が小姓より重みが違う

享保2年12月17日。御宮への名代を兵部殿が勤める。瑞祥院様(徳川吉通正室)が天王・若宮・稲荷を詣でる。この日の明け方寅刻(午前3時)、壱岐守(竹腰)が江戸へ出発する。年頭の使者で赤坂に泊まり、前日奉書にて(ママ)わたこみ(連絡)を下され…

3000人も動員されるのか

享保2年12月11日。不同金が3升下がり3斗8升となる。御供帳が出る。雑の部に入れて置く。隼人正が二の宮(大縣神社)のあたりで鹿狩りを行い、勢子は3000人ほど。

その間に対策を講じるんですね

享保2年12月10日。富永三右衛門が死んで、この日披露する。実は自害であると。常々痞(つかえ)を煩い、乱心のようになることもあった。5歳の西尾権六が孫なので跡取りを願い出る。

この時代は礼節を重んじる

享保2年12月6日。紀州様の任官につき生駒外記、公方様には荒川外記が使者を仰せつけられる。

年末の資金繰りは頼母子

享保2年12月7日。文左衛門は仲間の口米を差し上げる。文左衛門は申(午後3時)から文助へ頼母子会で出かける。権田与右と松平定助へ落ちる。酒や食事を頂き、夕暮れに帰る。

殿からの代参はないみたい

享保2年12月5日。亀太郎(徳川綱誠七男)の法事が今月1日・2日に建中寺で行われる。1日には泉光院様(徳川継友生母)が参詣し、1日中滞在する。古井光照院が善篤寺の住職となる。

働く代わりに金を納める

享保2年12月4日。3分の役1両3分11匁7分を出す。

鷹ってそれほど見かけるものだったのか

享保2年12月3日。元右へ口米金9両1分130文を持参する。鷹に逢った場合の言いつけが廻る。

京へ出かけてましたね

享保2年12月1日。夕暮れ頃、瑞祥院様(徳川吉通正室)が名古屋に到着する。28日に草津に泊まる、29日は坂下、1日は桑名。

享保2年12月の徳川継友の動向

享保2年12月5日。5つ(午前8時)に供揃えを行い、御三方へ出向く。帰ってから建中寺を詣でる。泰公(徳川綱誠)・円公(徳川吉通)・真公(徳川五郎太)の廟の後に書院に座って弁当の湯漬けを食べ、庭へ下りて8つ(午後2時)頃帰る。建中寺では膳な…

享保2年12月の地震です

享保2年12月8日。丑刻(午後1時)、少し地震がある。

享保2年12月の天気です

享保2年12月1日。快晴。享保2年12月2日。快晴。享保2年12月3日。快晴。穏やかで暖かい。享保2年12月7日。朝、しばらく雨が降って止み、晴れる。享保2年12月9日。快晴。享保2年12月12日。快晴。享保2年12月13日。曇り、辰(午…

こりゃ大被害だ

享保2年11月30日。酉8月16日からの風水害での尾州・濃州領内損失の覚。一 田畑高133500石ほど損亡、内高28000石ほど不作、高49000石ほど大損害、高23000石ほど中損害、高37500石ほど小損害。一 堤3500間(1間は約1…

お気に入りだもの

享保2年11月27日。文左衛門は口米帳を認めに元右へ出かける。善篤寺が白坂の雲興寺の住職となる。守崎舎人は隼人正からの附人藤田新五左衛門を常々どこへでも連れて歩いていた。新五左衛門は今年1月に2度加増となり200石になっていた。城の休所へ…

花井勘右衛門はかなりの人物ってこと

享保2年11月25日。蔵田八郎左衛門は惣代となり、花井と名を改める。初めの家名は菱屋で京町通伏見町と桑名町の間に住んでいた。花井勘右衛門の聟であった。上使宿預りで10人扶持、惣代で5人扶持となった。八郎左衛門養子は片倉源右衛門の子であった…

やっぱりコネですか

享保2年11月24日。上方筋では激しい雨と風になる。田村川・松尾川も水かさが増えて、渡しがなくなる。25日朝卯(午前5時)過ぎようやく水が引き、渡しが再開される。瑞祥院様(徳川吉通正室)の御迎の衆も足止めとなる。舎人武兵衛の母は初め石川主…

御迎って先乗りの人たちのようです

享保2年11月23日。瑞祥院様(徳川吉通正室)の御迎は野呂瀬内記、御目付浅野弥一右衛門、御馬廻小頭兼松甚七・五十人御目付相原久米右衛門・平田波左衛門、御歩行衆矢部定右衛門・矢田忠右衛門・鈴木権八・中村告蔵・杉浦惣左衛門・粕谷小右衛門は昨夜…

12両も貰えば小躍り

享保2年11月22日。瑞祥院様(徳川吉通正室)御宿割の五十人吉田小兵衛・永田弥右衛門が名古屋を出発し、京に上る。濃州恵那郡大井村の村から4丁(1町は約100メートル)に野畑のというところの六右衛門扣の新畑の畔石に、横1間(1間は約1、8メ…

年末は金がらみ

享保2年11月21日。不同金は3斗5升。定金は4斗2升。

年末は頼母子

享保2年11月19日。申(午後3時)前から文左衛門は与左へ出かける。頼母子会で1人1分6匁5分ずつ出す。加藤十郎右と渡辺源右へ落ちる。吸物・飯・酒を頂く。夕暮れに帰る。

落合喜八郎は困るだろうな

享保2年11月18日。大久保平太長屋の溝端に50に近い男が羽折・脇指・革足袋で死んでいた。横井六右衛門組の中間孫市だと。34、5才と云々。悪ふざけをして酒を飲んだ上、溝に落ちてしまう。泥水をしたたかに飲み、胸がふさがり死ぬと。小兵から増左…

年貢の割合ですね

享保2年11月17日。渡辺備中守息女が昼過ぎに到着する。半蔵のところに滞在する。22日に甲斐へ道具を遣わし、24日に婚礼を行う。天野治郎で夕飯を頂く。左の通り、与左へ書付を遣わす。一 高100石 2ヶ村 当面の年概免4つ2厘2毛。この取米40…

ちゃんと参上しろってこと

享保2年11月15日。この朝、茶屋のところの京の者が20箱献上するが、その中にはやって来ない者もあった。また手代を寄こしたところは御目見はなし。井筒屋跡目山田屋十右衛門1人が楽器の間で名を披露され、御目見がある。料理、時服を下される。