名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

そうか桜島の噴火なのか

安永8年(1779年)。
7月。
7月、先月と同じで天気は不順である。
同じように雲が立ち昇る。

伝馬町井桁屋茂右衛門という者が油屋某という者と双六の勝負に負け、1万両ほど金をつぎ込んで行方をくらます。
蒲焼町米屋の何某も双六に負け、同様だと。

七夕で、町々の手習師匠(寺子屋教師)は作り物を多く飾る。

12日、13日、14日の3日間、東の山、水野のあたりでは大雨のため山が崩れるかと地元の者が心配すると。
丑の年の33年目、亥の洪水の13年目にあたり、あちこちで心配する。

飴屋町は踊りを計画したところ、急に中止となる。
盆の間は静かである。

7日より春日井郡高田寺村薬師を開帳する。

13日より9月2日まで中郷常閑寺薬師の開帳のため、馬の塔・獅子舞をあちこちから集まり賑わう。
時々大雨が続き、21日、22日頃には枇杷島では水が8合あまり、五条川は東へ決壊し、小田井あたりまで水が入る。
その他西の方では洪水となる。

23日、朝より激しい雨と雷になる。
ただし、夕方には静まる。
未ノ刻(午後1時)頃、どうご新田(熱田新田の中で二か二番の内外新田まで、熱田新田の東の方)というところでは急に両側より黒雲が立ち昇り、1つにまとまる。
風が起こり、荒子では添屋1軒が倒れ、本郷村文左衛門という者の家は椽の根太よりひっくり返り、庭にあるふた抱えほどの楠がねじ切れ、大釜を吹き上げてどこへ行ってしまったかわからず。
小鳥も多くいたが、籠は行方がわからず。
下女は額を怪我し、また柿の木が吹き落ちて屋根には小石のように様々な実が落ちている。
また、他でも家1軒が倒れ、この村の西を荒子の者3人が通っていたが、1人が吹き上げられ、かなり飛ばされて落ちる。
しかし、怪我はなし。
街道の並木は松1本がねじれ、戌亥(北西)の方へ飛んで行く。
この時一色村で風を追っていくと、東北の方で雲が立ち込め、高須賀にて家4軒が倒れ、下中村東の端にて家5軒ほどは引き倒される。
もっとも家は少しねじれている。
そこより栄村の方へ風は行く。
この雲は側では様子がわからないが、遠目に見ると黒雲の中に赤いものがあると。
この雲はいたって屋根の近くをこするように通ったようで、あちこちで屋根のおんどり(?)を雨が降ったように道々に散らし、雲はくるくると廻ったようだと。
中村あたりより先ではいつもと変わらず。
その後この雲は入鹿の池に消えたとの噂もあり、近辺では被害もあると。

8月。
8月、東の村々で祭狂言が多く行われる。

1日より門前町浄久寺にて川名香積院和尚垂戒が行われ、当寺霊宝景清守本尊観音を開帳する。

11日より20日まで富沢町七宝山正徳寺宝物を弘通する。
ただし、今年4月の類焼のため堂の奉加が行われ、参詣の者が多く集まる。

22日、玉屋町にて盗人を召し捕る。
この盗人は大坂にて牢を破り、当地へやって来て旅人のふりをして滞在し、病気だと留まって昼は近辺を見廻り、夜に家々に入って少しずつ盗みを働いていたところをこの日召し捕り、牢に入る。

24日、朝より雨が降り、25日には風雨が激しくなり、その後大洪水で決壊するところが多くある。
志段見村(志段味村)・上条・味鏡(味鋺)・比良・大野木は決壊し、南は小田井堤を境に、東は木津川、西は五条川、北は小牧のあたりの間は一面海のようで村々の家の棟も隠れるくらいの大洪水となる。
枇杷島川は1升の水といい、この時に水がいっぱいになっており、そのため洪水の際にあちこち決壊すると。

26日、晴れているが、風が強い。

27日、小田井堤へ見廻り、見物人が多く集まる。
船がないので見廻りに行く者も帰ると。
家が流れ着き、壊れてごみのように岸に寄せられたものも多くある。
諸道具の類が浮いているようで、波の荒いところでは船でも通りがたく、御船方ならびに御水主の衆であってもあまりに波の高いところは通れないと。
このあたりは今までになかったような洪水である。
清洲・津嶋は通ることもできず。
これは二ツ杁で決壊したためである。
また、西の深いところでは船がなくては通行できない。
宮、八丁縄手は水が深く、通行できなくなる。
鳴海あたりの家々は水が流れ込み、流された家もある。
その他、知多のあたりも洪水と。
天白川が決壊する。
また、三州衣(拳母)の城下は洪水で城の門がねじ倒れると。
同苅屋(刈谷)も洪水と。
また、木曽川は三州へ決壊すると、そのため当国は3分ほどだけ残るという噂もある。
非業の死もあり、松河戸村にては家がたくさん流され、その中のある1軒は樫の木に流れ着き、この家の主は怪力で、屋根の棟を破って外に出て子どもを下帯でくくり、女房を助け上げてこの木にくくりつけ、自身もこの木に取りついて夜を明かしたと。
子どもをくくった時は木の枝に食らいついてしばりつけると、本当に村の怪力者であった。
また、この決壊個所の先の家は5人暮らしで、流されて北の産神の森に流れ着き、ようやく命が助かると。
その他いろいろな噂が多く流れる。
宮、八丁縄手では27日より道が通じる。
この夜、稲葉地村のあたりでは、西の堤が決壊しそうだと大きな声で叫んでいたので、老人・子どもを堤に上げ、岩塚の方へ逃げてきたところ、その間に盗人どもが2軒の家に入ると。
盗人どもは堤が決壊すると叫び、その騒ぎにまぎれて盗みを働くと。
その中には人が残っていたところも逃げ出したところもあったと。
悪党どもはこの家を壊し、衣類を始め諸道具などを盗むと。

28日、雨天。
この夜戌の刻(午後7時)、大きな光り物が東より西へ飛ぶ音が雷のよう。

29日、雨天。
津嶋へ道が通じる。
万場では胸までの水になると。
川々の渡船は100文で渡すとかで、村々の行き来は難しいと噂する。

同日、江川へ当才(数え1歳)と5歳の子ども2人の蚊帳に包まれた死骸が流れてくる。
この夜、枇杷島堤は続いた雨でか決壊しそうに見えたので、鐘、太鼓で人を集めると。

9月。
9月の9日間、枇杷島中嶋法華塔の前にて水害で居場所のなくなった者たちへ、握り飯を施すよう仰せ付けられ、村々へも船で出かける。
今回の水害の様子を殿様は聞いておられ、あちこち難儀していること、助けの船が遅かったことで殿様はたいへん機嫌が悪く、諸役人の手抜きだと、また自らこの場所枇杷島あたりのを御覧になられると。
4日より土田みよ(水脈)を塞ぎ、同日、味鋺みよを塞ぎ、佐屋街道みよを塞ぎ、味鋺は度々切れるので急には塞げないと。
清洲街道は未だ通れないので馬は味鋺へ廻る。
はなはだ難儀である。

10月。
10月1日、夜、子ノ刻(午後11時)、空が曇って真っ黒になり、雨がばらつき、霰交じりの雨のような音が聞こえる。
翌朝、庭に灰を水に浸したようなものがびっしりと降り、木の葉にもふいり(斑入り)のように白い跡をつけ、大粒なものは〇くらい、小さいものは◦くらい、まだらに降って霰などのように同じ大きさではない。
何というものか知る者はなく、はっきりさせる者もいない。
舐めてみると甘く、甘露が降ったなどともっぱら話している。
知多、三州あたりでは大分降ると。
草にも雪ほど積もったと話している。
沖の船では汲みだすほどで、船頭は持ち帰って見せたこともある。
八事あたりも大分降る。
いつまでも消えないと。

戸田の医者が酒に酔って下人を殺す。
この男が親類から頼まれ、主人に酒をやめるよう意見したのを医者は怒り、寝ているところを寝首をかき、すぐに行方をくらます。

当月1日夜に降ったものが江戸でも降り、江戸にては灰が大分降ると。

矢場浄清寺境内で辻講釈を行い、流行る。

11月。
11月、古渡稲荷前の酒屋に、珍しい唐臼ができ、12人で舂くのを2人で息を合わせる。
水車のようにゼンマイのからくりがあり、見物人が多く集まる。
これは竹田文吉の作である。

8日、伝馬橋裏光明院で鐘の供養が行われて大いに賑わい、上下3町(1町は約100メートル)ばかりの間は人の隙間もなく、いやがうえにも押し合いになり、女1人は目、口から血を流し、大騒動になる。
鐘の供養で一番鐘を女が搗くはずのところ、あまりの騒ぎのためこの寺の和尚が鐘を搗く。
餅をたくさん投げ散らす。

主上(後桃園天皇)崩御につき、12日より16日まで、普請・鳴物は停止、諸事物静かにとの触れが12日廻る。

京都本願寺報恩講は来る3月まで延期されるが、当地は執り行われる。
23日、雪が降る。
近年まれな寒気である。

12月。
12月、御家中知行取の輩、暮れの御普請役米代上納は洪水などで工面も上手くいかず、難儀している者もあると聞き及んでいるので、格別に考慮して今年に限り上納の期限を延ばすこととする。
来月14日、15日より17日までに上納するよう命ずる。

晃禅院殿(六世継友)50回忌の法事が建中寺において26日・27日に行われることが言いつけられる。

火事の際、火元に用事のない者は出かけないよう触れが廻る。

当年は、洪水で米穀の値が下がり、どこでも出来が悪く、見かけはよくても手で押すと砕けてしまう。
また春には砕けて使えないものが多いと。
しかし、決壊のあたりでも、少しは米を納めると。

10月1日、薩州鹿児島で大地震がある。
桜嶋山中より火が燃え出し、土砂を飛ばし、死んだ人や家畜の数はわからず。
同夜、伊勢・尾張あたりまでも灰や土が降る。
前にも記してあるのであわせて見るように。

(p83~p87)