名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

2024-07-01から1ヶ月間の記事一覧

どちらも運がいい

宝永7年12月26日。昼、呉ふく(服)町いづゝや平兵衛側の中川惟遊屋根へ放火がある。この時風が強かったがすぐにもみ消したのは幸運中の幸運であった。近頃、磯貝伝大夫長屋の畳3帖が焼ける。火が燃え上がろうとしたのを消し止めた。

これは計画的だな

宝永7年12月24日。御目見坂本小伝次は奥田町で家を借りて住んでいた。父は長右衛門という右筆で後に新番となり、兄は彦之右衛門という五十人衆であった。同町の米屋をだまして衣服などをだまし取り、星野七右衛門吟味方の足軽の女を連れて逐電した。2…

年を越すには頼母子です

宝永7年12月23日。巳(午前9時)頃、文左衛門は一郎左の頼母子会へ行く。加右衛門が得る。酒を頂く。

論功行賞

宝永7年12月21日。靭負殿で鈴木定左衛門・山田理右衛門に巡見が終わったので雑用金として30両ずつ下される。かつ褒美として銀10枚ずつ下される。平田半右衛門は霊屋の褒美として服と羽織を下される。蔦木丹左衛門・寺町七兵衛・和田十蔵は三勤(マ…

これはお手柄だ

宝永7年12月14日。近頃、前須(津)矢場のあたりで放火し、その場に居合わせた火を持った2人のうちの1人をめあかしと見習いが捕らえ、1人は逃げ去った。捕まったのは野合(地名?)の乞食同然の者で、近頃もあちこちで放火していた。巾下の大火のこ…

一度に3千石は無理ですね

宝永7年12月11日。蔵米3千石を来年3月までに延べで売払うための入札がある。

法事の際などは必ず恩赦がある

宝永7年12月10日。法事が終わる。行赦がある。

良かった、良かった

宝永7年12月9日。午半(午後0時)、権内の妻が水風呂からあがると急に椽に倒れ、気を失ったので水を少し飲ませる。その後、水薬も受け付けなかったので、医師などが多く集まり、様子を見守る。申(午後3時)過ぎ、ようやく正気を取り戻し、徐々に回復…

薬は難しい

宝永7年12月6日。近頃、腹を下し、気が抜けたようになる人が多いが、加減(漢方の一種?)の薬で回復する。初め人参を用いると悪くなったと云々。目付沢井仁左衛門から廻文がある。8日から10日まで霊仙院様(千代姫)の法事があるので鳴物・音曲は止…

なかなか責任感のあるお方

宝永7年12月4日。文左衛門は口米金3両1分5匁3分を出す。値段は1両で9斗5升であった。二の丸の作事の見分に石川兵庫が出向かれる。他へは病気とのことで出向いておらず、そのため長髪で今日見分に出向かれた。十文字大夫が言うには。遷宮の際はい…

畳は文左衛門のお仕事

宝永7年12月3日。文左衛門は相応寺の見分から直ちにかねてからの約束で相役と文四と話をする。そば切などを頂き、夜は増水(雑炊)などを頂く。亥(午後9時)に帰る。夜、苅安賀村の民家60軒余りが焼失する。

なかなかの善政です

宝永7年12月2日。免番衆からの廻状に野崎村の覚応寺の堂が大破してしまった。貧しい地で工面することが難しいので、1人米6升5合を取らせるようにと云々。

宝永7年12月の地震です

宝永7年12月10日。昼までの間に2度地鳴りがあると。文左衛門は聞かず。宝永7年12月19日。卯(午前5時)過ぎ、小さな地震がある。宝永7年12月25日。明け方前、地震がある。未半(午後2時)、地震がある。

宝永7年12月の天気です

宝永7年12月2日。曇。宝永7年12月5日。曇。夜、また曇る。宝永7年12月6日。快晴。宝永7年12月7日。快晴。宝永7年12月8日。晴。辰半(午前8時)から急に曇る。しばらくすると雪が降って止む。また霰が少し降る。また晴れて、また曇る。…

100年経てばこんなものでしょうか、さびしいなあ

宝永7年11月30日。文左衛門は辰(午前7時)頃、平田院を参詣する。文左衛門は昨日香典100文を持参していたが、仲間やその他の者に効くと何れも200文であったので寿心に頼んで200文とする。吸物・こはめし(強目地)・に(煮)物・酒などは昨…

義直の守役を勤めた犬山藩主平岩親吉

宝永7年11月29日。この日から明日まで平田院で主計頭(平岩親吉)100年の法事が行われる。導師は建中寺香誉上人、他に出僧は30人、その中には遍照院上人、善住寺上人、全順院法輪院、以下は平僧であった。昼過ぎに経が始まり、申(午後3時)頃過…

これも恩赦ですか

宝永7年11月26日。文左衛門は口米帳面書のため昼前から源右へ出かける。小川善兵衛が病気のため加藤平左衛門が計算をする。他にも元右衛門・武右衛門がやって来て、夜食も頂く。亥(午後9時)前に帰る。7月に駿河町で狼藉をはたらいた大工は多く預け…

顔まで潰すとは極悪

宝永7年11月25日。近頃、酉(午後5時)過ぎ、東方に明るい星が出る。近頃、知多郡で木綿100端を馬に積んでやって来るところを切り殺し、顔を叩いて潰し、誰かわからないようにして木綿を盗み去った。このことは町中にも触があり、盗みを探し出す。

見舞なら大目にみましょう

宝永7年11月22日。文左衛門は辰(午前7時)過ぎから藤入・弥次見事共に大森寺へ出かける。藤入新田で2人が持参した弁当を食べる。大森寺は近頃足を煩って伏せていた。文左衛門と弥で酒3升を持参する。夕飯を頂き、申(午後3時)頃帰り、直ちに宝勝…

正義は負けたか

宝永7年11月19日。昨日、磯貝善左衛門の悉皆人が牢に入る。これは13年前に大塚村の百姓が娘を長野村へ奉公に出していたが、流産して死んでしまった。あるいは絞め殺したとも。この時金20両で娘の父親に謝罪し、大塚村の庄屋惣右衛門と相談して事を…

乳母が決まりました

宝永7年11月18日。青木小左衛門の女房とおさし(御差、乳母)2人がこの日江戸へと下る。馬廻小頭鳥居藤左衛門が一緒に江戸へ向かい、町医者竹田玄悦もこれに従う。おさし2人は姫君様御膳番飯沼清右衛門の妻と万五郎様衆近藤伴六の妻の2人であった。…

やっと捕まった

宝永7年11月17日。少し前、生田橋のあたりで木綿売りを切ったのは野崎清左衛門の召仕とわかり、牢に入る。近頃、知多郡南野の堤で心中がある。鳴海問屋帳付が同宿の女と密通する。在所へ行くといって女を殺し、自分は自害し損ねる。

屋敷って売れるんですかね

宝永7年11月14日。近頃、中根助右衛門・大梶定右衛門・下権左衛門は本屋を分けて売る。川口三右衛門・水野角四は家屋を粗末にしたと新左衛門に叱られる。

結局本職を雇うんですね

宝永7年11月11日。この日の井戸の作業は、井戸堀清六と日用の3人、それに市右衛門・八平の以上5人であった。桶が1つ不足して急いでまた1つを足した。かれこれ金子1両1分朱ほど入用となった。不同米は9斗1升、定金米は8斗9升となる。

実体のない土地ころがし

宝永7年11月10日。雇った井戸堀の見習はとても年をとっていたので上手く作業が進まなかった。そのため未(午後1時)過ぎに本職の井戸堀清六を呼ぶと、500文で請け負うとのことであった。初めに八平の言葉を信じ、本職の井戸堀を雇わなかったため出…

江戸時代は東区でも井戸を掘れば水が出たんでしょうか

宝永7年11月9日。文左衛門は今日から日用2人、井戸堀1人を雇い、井戸の作業にとりかかる。

跡目を継ぐって色々ありますね

宝永7年11月8日。少し前、岩屋伴右衛門を養子にすると、出雲守様(松平義昌)衆米沢久右衛門が4月23日に暇を願い出るが、願いは叶わなかった。平右衛門は必要ないと仰せ付けられた上に、跡目が必要ならば、惣領の弥七を外へ出すべきではないのに、弥…

素早い処分

宝永7年11月11日。夜、茂平治は伝大夫長屋で切腹となる。その手際はとても良かったと。使いは古高善右衛門、検使は土肥縫大夫。介錯は都筑小兵衛が務め、これは茂平治の願いにより仰せ付けられる。

ここまで行けば酒乱

宝永7年11月7日。26、7になる今井茂平治は水右衛門の養子であり、実は佐藤氏であった。茂平治は江戸の者で30あまりの前田荻之右衛門を切り殺した。大田慶治郎がやって来て、闇夜で何も見えなかったが剣の光で茂平治を捕らえた。後に小姓役浅羽喜代…

今ならインフルエンザの大流行

宝永7年11月3日。近頃、特に山口あたりで疱瘡が大流行する。荒川十大・平沢弥八・市瀬助大子・相原弥右衛門子など。一々は記さず。