名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

2024-01-01から1ヶ月間の記事一覧

大がかりな事件だから厳重だな

宝永4年8月30日。金左衛門の初めての詮議が行われる。国用人熊谷与兵衛・目付鈴木安太夫・五十人目付林分五左衛門・酒井八郎右衛門。

包むとありますが屋根葺き替えですかね

宝永4年8月29日。文左衛門は本屋の屋根・棟を包む。蕨縄9把・小麦殻15束半、5尺縄で2束にし、これを買い求める。7束が残る。屋根葺2人に120文ずつ。大須で十三郎の狂言、ほかに芝居が1つ行われる。ごままはし、枕返し、音頭取。

借金の話が多い

宝永4年8月27日。近頃、評定所東揚屋へ馬や中間小頭紋右衛門が入る。江戸でも1人預けられる。引負(借金)のことがあると。

真実はわからない

宝永4年8月25日。夜、鈴木藤入の14になる娘さちを小僧上がりの19になる千介が連れて出奔する。あちこちへ追っ手をやると、熱田へ向かった追手の若党と鑓持が船番所で帳面につけた者を尋ね調べると似た者がいた。すぐに小舟で追いかけ、船へと乗り移…

材木を横流しか

宝永4年8月21日。上田織部は願いにより役を解かれ、寄合となる。座は以前の通りで、足米も500石全て下される。少し前、尾張に戻った際はかなりの威勢であったが、次第にそれも失せていた。嶋松右衛門の弟子の稽古を見たくて御意があったようににおわ…

お手柄だ

宝永4年8月19日。今月11日、山城守医者で御園杉の町と桜の町の間に住む市野道作の家に白昼盗みが入り、2階へ上がり召仕の衣類を盗んで逃げだそうとするところを見つけた。そのうち近所にいた町奉行同心伴文右衛門などが聞きつけ、1人を捕らえて町奉行…

何をしに行ったのか

宝永4年8月16日。辰半(午前8時)過ぎから文左衛門は政右と末森山へ出かける。3間(1間は約1,8メートル)の梁に4間の塩硝蔵が5つ建っていた。その間に舎塀を築き、それぞれを隔てていた。惣構(外周)の舎塀は東西40間、南北80間。他にも西に…

公金横領で闇金融

宝永4年8月15日。未(午後1時)過ぎから文左衛門は政右・市兵と月見のため味鋺へ向かう。その途中で安栄寺で酒や食べものを頂く。味鋺では鮠を釣り、汁を煮て茶を飲み、酒や肴で大いに楽しむ。亥(午後9時)過ぎに帰宅する。金左衛門は前職の時かなり…

他所の国の暦って、何かあるんでしょうか

宝永4年8月13日。文左衛門は今年の清の暦を見る。南京のものは紙14枚。他に表紙が半枚。(中略)北京の紙32枚。他に裱紙(表紙)1枚。(後略)

こういうことってあるんですね、代読

宝永4年8月11日。中西甚五兵衛は江戸定詰用人となる。150石が加増され、200俵の役料もほかにありあわせて700石となる。隼人正自らが申し渡すはずであったが、急に隼人正は気分が悪くなり、飛騨守が申し渡される。

職務怠慢ってこと

宝永4年8月12日。夜、佐兵衛という者が牢を抜け出し、行方が分からなくなる。このため牢奉行加藤伴右衛門は預けられる。町奉行足軽が4人ずつ番をし、9月末に追放となる。

それほど不正が多かったってこと

宝永4年8月6日。手代・足軽など賄賂の廻文がある。

今の奨学金ですかね

宝永4年8月3日。吉見兵部が学問のため上京し、12月に帰って来る。年季金(期限付きの借金)を拝借する。

病気とは乱心のことであったようだ

宝永4年8月2日。竹腰山城守大番杉野甚兵衛が江戸で病気となる。従弟の伊藤源蔵が一緒にこの日江戸を出発する。4日に南湖の茶屋で甚兵衛は刀を抜き、ひどい乱心状態となったので急いで江戸に知らせ、江戸から板乗物で迎えを寄こして引き取る。

茘芝ってなんでしょうか

宝永4年8月1日。夕飯後、文左衛門は瀬左・武左と金谷坊へ網を打ちに出かける。矢田のはずれから金谷坊までの間では雨が降って止み、その後晴れる。魚を捕って汁を煮て、酒などを頂戴する。文左衛門は川筋で茘芝(?)1つを得る。子ども2人が茘芝を1つ…

宝永4年8月の天気です

宝永4年8月1日。晴。宝永4年8月5日。未(午後1時)前、雷が遠くで轟く。未半(午後2時)過ぎから雷が鳴る。雨がまた降る。段々と雷が激しくなり、申半(午後4時)頃、雷があたりを震わせる。成瀬又平治と沢井助左衛門の屋敷境にあった木の根に落ち…

十蔵はまだ見つからないのか

宝永4年7月28日。足袋屋の子新蔵は先日の傷が治らず、ついに死んでしまう。

金持ちほどケチってことはよくある

宝永4年7月26日。少し前に津嶋でとみつき(富くじ)を行った4人がこの日追放となる。近頃、大久保見町で十蔵の伯父であった町人2軒の戸を封じる。町奉行所で十蔵を探し出すよう言われたが、これでは身代がつぶれてしまい、迷惑すると言ったと云々。こ…

この事件も理由がわからないのか

宝永4年7月15日。昼頃、大用寺うら(裏)で灯篭を燃やしていた。その火が燃え移り、藪垣(垣根)が焦げた。足軽が段々と駆け付けて来た。茶屋町で大坂からやって来た夜おどりが行われた。ところが音頭取が急に血を吐いて死んでしまった。その出血が激し…

大好きな芝居見物か

宝永4年7月14日。昼頃、古田半之助が気を失う。食あたりと暑さのためか。未(午後1時)過ぎに文左衛門が出かけると、だいぶ良くなっており、吐くとさらに良くなった。大須で十三郎の狂言が行われる。竹本を本を真似ての狂言で、清十郎の50年忌であっ…

理由もなく手討ちにしようとしたわけではないだろう

宝永4年7月13日。未刻(午後1時)、桑名町通り堀切すし(筋)新番小頭佐藤清左衛門が悉皆人(家中を取り仕切る人)を討ち損ね、悉皆人は走り去った。これは内儀が清左衛門を抱きかかえたため。清左衛門は三尺手ぬぐいを巻いたまま追いかけた。途中でそ…

榎の祟り

宝永4年7月12日。近頃、後藤彦太夫が尾張に到着し。伯父三沢伝左衛門に預けられる。すぐに伝左衛門のところに籠居となる。後藤弥次右跡目にも預けられる。別の話では彦太夫の屋敷には神木と言い伝えられた古い榎の木があった。しかし、彦大夫は乱心する…

というか月が水晶ように光を通しますか

宝永4年7月10日。酉半刻(午後6時)、星が東から西へ月を貫いて現れる。心宿(中子星)という者もいたが、そんなことはない。深田宗室が言うには、この夜には心宿はこのような動きをしないと。決して心宿ではないと云々。文左衛門は昼過ぎから瀬左・惣…

これも温情なのでしょうか

宝永4年7月9日。この日、巻沢団右衛門が評定所東屋敷から中の町小林八右衛門の屋敷へ移る。ここには場所が設けられ、細川茂左衛門などへ御預けとなり、勘左、伊右も注意を払うようにと。親類もないことなのでなどと仰せられる。

これは遺恨を残したな

宝永4年7月6日。近頃、大津町下清浄寺の敷地内に空地を設ける。そのことを屋敷奉行は全く知らなかった。上田織部から命令かも。飛騨殿はそのことを聞かれて不快に思われたと。

でも苦しんだ様子もないので幸せな死に方かも

宝永4年7月5日。戸田孫兵衛は昨日増田(欠字)のところへ碁をうちに出かけ、卒中なのか息が途絶える。帰宅し、今朝死んでしまう。

宝永4年7月の天気です

宝永4年7月1日。晴れて暑い。宝永4年7月2日。夜、暑い。宝永4年7月3日。雨が降るが、巳(午前9時)前に止む。雲が乾(北西)へゆっくりと流れて行く。東風が少し吹く。時々、曇る。未(午後1時)前から雨が降る。しばらくして止む。曇。申半(午…

町人にはこの程度の書き方

宝永4年6月28日。子半(午前0時)前須村の町屋3軒が消失する。清浄寺を南への突き当り、小社の側の小さな家であった。

頼りになるのは現金ですよ

宝永4年6月23日。文左衛門は役料手形を8斗替えで売払う。

被害はなさそう

宝永4年6月20日。午半(午後0時)、少し地震がある。