名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

材木を横流しか

宝永4年8月21日。
上田織部は願いにより役を解かれ、寄合となる。
座は以前の通りで、足米も500石全て下される。
少し前、尾張に戻った際はかなりの威勢であったが、次第にそれも失せていた。
嶋松右衛門の弟子の稽古を見たくて御意があったようににおわせたが、どうしたわけか終にこれを見なかった。
清浄寺の間地を設けさせたのも織部の仕業と云々。
小姓高橋政之助が飛騨守宅でかため(約束、契り)の際に立ち合うはずであったが、不案内と立ち合わなかった。
飛州は怒ってこのことを江戸へ訴えたと云々。
近頃、名古屋で大村源兵衛二枚手形(奉公人の請状)のことが大いに噂になると。
蔵へは出かけなかったと。
このため国用人衆に源兵衛はこのようなことを誰が話し出したのか調べほしいと訴え出たが、取り合ってもらえなかったと云々。
今月、平田半右衛門が承った三つ蔵の作事方の日用取が4尺(1尺は約30センチ)檜2丁を担いで外へと出て行った。
この様子を一色茂左衛門が見ていて怪しんだ。
中間八右衛門に命じてその後を追わせた。
上畠あたりまで見届けたと云々。
このことを11日に茂左衛門は津田九郎兵に報告した。
このため半右を呼んで調べさせたところ上畠の丁子屋というけんどん屋(うどん屋)へ運んでいた。
日用両人太左衛門・喜左衛門は牢に入る。