名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

博奕の処罰が続いてます

元禄16年8月15日。
先月預けられた輩4人、評定所にある3人と吉田主膳がこの朝追放となる。
預けられた者の中で石川平四郎は旗本番衆三浦半之介400石の仮養子となっていたので、この日平四郎1人は初めの通り刑部に預けられる。
平四郎兄の理左衛門を屋形へ呼んで、老中は半之助から返事はあったかと申された。
まだ返事がないのなら明日飛脚を江戸を遣わすよう申された。
返事があり次第申すと云々。
追放を仰せ渡したのは供番正木三郎兵衛・目付稲生半右衛門。
預けられた輩は追放となる。
その妻子も追って追放を仰せ付けられたので、今日中に国を立ち去るよう云々。
跡は全て闕所となる。
検断の2人は足軽を連れてやって来て調べる。
御目見または親兄弟に世話になり自分の屋敷が無い者はその道具を町奉行へ持って来させる。
博奕については強く仰せ付けられていたが憐憫に思われこの如くと。
瀬戸段助は荒川十左衛門の家で博奕をしたと云々。
追放の輩は境川まで刀なしで駕籠に乗せ、そこから大小を持たせて川を渡る。
下新兵衛は熱田から船に乗せ、桑名へ向かう。
国のほか10か国立ち入り禁止。
段介は金子4両を貰う。
その他3分1両ずつと。
六郎左は新兵衛に2分取らせる。
もっとも評定所に入る者はどこからも金子はなし。
町人や百姓で牢に入った者は36、7人がこの日追放となる。
下兵衛には7歳の男の子がおり、近々妾に子が生まれる予定。
後に手嶋弥右衛門は親類にこう語る。
自分はとても好色であり、どう仰せ付けられてもそれに従うと云々。
博奕はそれほど好きではないが、主膳などとは行っていたと云々。
博奕に連なった者で中山瀬左衛門は宿をやっていた。
その他野呂忠左衛門・玄蕃組林太左衛門・供番兼松七之丞・佐藤惣兵衛・松井林右衛門など多くいたけれど幸いにして免れたと云々。
この日、石川理左衛門を屋形に呼び、その方の伯父栄心という者は三州に住んでおり、度々尾張にやって来て博奕をやっていると吉田主膳が言っている。
今後は終わりに来ぬようにしろと老中は申される。
この日、繁之丞兄の辰巳長左衛門が閉門となる。
屋敷奉行がこれを閉ざす。
夜、釘で封をする。
この日、新兵衛弟の井上権左衛門は病気と言って出て来ず。
100日過ぎて役の者が出かけ、翌年申の年から番を勤める。
この日、本町門の土橋のあたりで真妙女(尼)2人を連れた50ばかりの比丘尼が急に子を産み、駕籠を借りて帰ったと。