名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

いろんなことがあった1日、しかし中間たちがかわいそう

元禄16年7月15日。
夕暮れ前、石川理左衛門・瀬左衛門を連れて石川平四郎を河村九郎右へ連れて行く。
用があるので沢井刑部へ参られるようにと云々。
刑部へ行くと刑部が現れ尋ねられる。
私に預けられたので、不自由ではあるけどしばらく私宅にいてください。
決まりなので大小は預けてくれと言って、瀬左が受け取り、刑部の家来へ渡す。
刑部は平四を連れて部屋に入る。
暇乞いには及ばず。
理左・瀬左は帰る。
片桐幾右衛門を権左衛門と渡辺金右衛門を連れて、夕暮れに九郎左へと行く。そこから石川弥十郎のところへ連れて行って渡す。
下新兵衛は両小頭同道して井野口六郎左衛門に預けられる。
玄蕃組手嶋弥右衛門は成瀬竹之助に預けられる。
竹之助の若党のため条理が立ちあう。
御目見で与太夫弟、津金作之介継母の弟瀬戸禅介は玉置安之丞に預けられる。
評定所の中の久右衛門居宅を2つにしつらえる。
吉田利兵衛弟の水野弥兵衛、長左衛門弟の辰巳繁之丞が入る。
間嶋忠左衛門・市野辺伊右衛門が守る。
弥兵衛はあらぶれて、板囲に入る際にも大いに足拍子を踏み鳴らす。
主水殿は幾右衛門も六郎左衛門に預けると申し渡されたが、六郎左衛門は人が少なくて新兵衛1人でも人手が足りないと。
でまかせで辞退しているのではないのでどうか別の人に預けてくれるよう辞されたと。
主水殿は、人が少なく預かる人がなく、新兵衛1人でも十分ではない。
嘘で言ってるのではなくて、誰かに預けると言っても辞退されると。
14日に主水殿宅で預り主に申し渡す。
いずれも博奕の罪で主膳の白状による。
荒川十左衛門と繁之丞が賭博の場所であり、杉の町の一銭剃(髪結)でも行われたと。深夜にけんどん(うどんやそば)などを取り寄せ、夜回りに咎められたこともあったと。
繁之丞のところではとりわけ町人や浪人が多く集まってうるさかった。
十左衛門は酒に酔って町人の頭をはたき、幾右衛門を浪人とからかって脇差をひねりまわす。
騒動というほどでもなかった。
長左衛門は場所代を得て、自分は屋敷を出て、博奕には加わらなかった。
夜、坂下で鈴木平次左衛門が僕を連れて踊りの中を割って帰っていると、中西新七中間が平次左衛門に抱きつく。
すぐに突き飛ばして刀を抜き、むね打ちにすると頭を少し傷つけ、中間は逃げ去る。
平次左衛門は永井金左衛門ところへ出かけ、酒に酔っていた。
この中間は直ちに逐電する。
あるいはこの中間は家まで帰り、主人に暇を乞って無事におさめるため平次左衛門の僕の仕業とし、平次左衛門んも連れていた僕に暇を出し、新七も暇をもちろん出す。
丑(午前1時)頃、桜の町通り、呉服町と七間町の間で15になるとぎ(研)屋の子が30ばかりのかぢや(鍛冶屋)の腹を殴り、腸を出す。
近頃、高須で矢崎清右衛門が自殺する。