2024-04-01から1ヶ月間の記事一覧
宝永6年4月29日。久屋杉ノ町の角、平吉という米屋が自殺する。貧しさのため。亀尾天神の町の隼人正家来服部求馬中間と槍持ちが悉皆人を未刻(午後1時)過ぎに求馬宅で切り殺し、立ち退く。
宝永6年4月28日。夜、吉原助大夫の長屋で槍持ちを若党と中間で切り殺し、立ち退く。
宝永6年4月27日。升屋町あかものや(ぬりもののこと)の召仕女が首を吊って死ぬ。妊娠したためか。この日、狼を撃ち、老中などへ持ってくる。近頃、町々を無法者が練り歩き、婦人・女の子を剥ぎ、鼻紙入・巾着などを無理やり奪っていた。これは小普請高…
宝永6年4月26日。卯半(午前6時)、文左衛門は宿を出発する。昨夜から駕籠を雇い、桑名まで乗って200文かかる。先日桑名屋十蔵にこの日の船を頼んでおいたところ、熱田の船を留め置いてあった。十蔵のところには客があったので十蔵の近縁のところへ…
宝永4年4月23日。近頃、遊行上人の草履で諸病および不快のところを摩(ナズル)となんでも思い通りになると大流行する。家々で噂になり、竹腰帯刀まで取り寄せる。ほかはおして知るがごとし。
宝永6年4月21日。狼といっても野犬で、それも小さな1頭を撃ち殺して国奉行のところへ持ってくる。
宝永6年4月20日。文左衛門は帰路上下を脱ぎ、羽織を着て修理殿へ出かける。暇をもらえてありがたいことである。明朝出発すると伝え、そこから源右へ暇を乞いに出かけて帰る。亥(午後11時)前、八郎右・瀬左とともに文左衛門は出発し、巾下を抜けて佐…
宝永6年4月18日。領内で狼を捕らえるため板取(美濃国郡上郡)より呼び寄せた猟人14人がこの日から出かける。
宝永6年4月17日。行赦が3人ある。早朝に舞楽がある。巳(午前9時)過ぎ、祭礼が始まり、未半(午後2時)に終わる。
宝永6年4月16日。舞楽が延期となる。夜、法花寺町の町屋が焼失する。水野権平の手で昨日木津で撃ち殺した狼を、この日在国の老中から御用人まで吊って廻る。近頃、村で普請型の手代と称して御用のための石や竹があるか聞いて回り、判を取って食事などを…
宝永6年4月14日。二条右府が熱田に泊まられる。成瀬藤太夫が出向く。近衛殿が鳴海に泊まられる。井ノ口治太夫が出向く。
宝永6年4月11日。この日から時の太鼓が修復のため辰巳の矢倉に移る。案内の者が飛保曼荼羅寺の山で三昧太郎という名の犬を撃ち殺す。長さは3尺5寸(1尺は約30センチ、1寸は約3センチ)、顔は6寸、口は5寸と云々。狼とやって来て8つになる子ど…
宝永6年4月9日。朝比奈宇右衛門のことは兵部宅で申し渡しがあり、知行・居屋敷は召し上げられ、5人扶持小普請となる。江戸より名古屋へやって来る。近頃、浪人高松半助という者は京で世話をしてくれる者があると、母と一緒に出かけたがるが分散(破産)…
宝永6年4月7日。丑刻(午前1時)、熱田築出しの町屋1軒が焼ける。今年の麦の値段は1両で9斗2升。
宝永6年4月6日。文左衛門は卯半(午前6時)過ぎから源右衛門と成就院へ出かける。間淵八右・同子喜八・間淵源兵がここで待ち合わせる。そこから矢田堤で源右・源兵は弁当を開き、酒などを頂いて藤入新田へ向かう。ここに藤入がいて、また酒などを頂き、…
宝永6年4月4日。近頃狼がたくさん現れるので、水野権平に命じて鉄砲で撃たせた。この日、二ノ宮山から追い出し、楽田山で1頭を撃ち殺す。久野半助という足軽が撃ち殺す。ただし、玉2発で撃ち殺す。狼が手向かってきたの撃ち殺したと申し上げる。かねて…
宝永6年4月1日。吉田の橋を前々の通り架けるよう言いつけられる。近頃、鍛治屋町下池に4つばかりの子を殺して捨ててあると町々に廻文がある。近頃、多(田)楽・篠木あたりに狼が出て、子どもや女を食い殺すことがとても多い。味鏡(鋺)でも14になる…
宝永6年4月3日。申刻(午後3時)、少し地震がある。宝永6年4月7日。夜、地震がある。
宝永6年4月1日。晴。宝永6年4月3日。時々、曇。昼頃、遠くで雷が2、3度轟く。夜中、雨が降って止む。宝永6年4月4日。晴。宝永6年4月6日。薄曇。夕暮れから雨が降りそうで降らなかった。近頃の天気は巽(南東)の風と湿った雲、何度か雨が降り…
宝永6年3月29日。この日から穏便が終わる。ただし鉄砲は撃たないようにとの廻文がある。近頃、人参の値段上下がる。木綿の値段が上がり、下々が迷惑していると聞き及び、詮議したところ、帆に大分使われているので今後一切新規にもめん帆は禁止する。た…
宝永6年3月28日。文左衛門は円水で酒を頂き、源左衛門でまた酒を頂き、丹左で吸物・酒・茶づけなどを頂く。申半(午後4時)頃、火事とのことで戻り、手代屋敷へ行く。清左衛門南の藪垣を隔てたところまでで、燃え始めには火の子がたくさん飛んできたと…
宝永6年3月27日。竹腰民部の元の同心は全員明組となる。その他の明組もほかの組の指し人(差人)となる。左に記す。(略)。このためまず小普請になり、組の知行と屋敷は召し上げられる。屋敷は屋敷奉行が受け取る。
宝永6年3月26日。この日で文左衛門の蔵の大工工事が終わる。都合35日かかる。西鉄門土橋の石垣が普請のため東鉄門を通る。
宝永6年3月25日。この日7人がやって来て、文左衛門蔵の壁を塗り終える。
宝永6年3月24日。6人がやって来て文左衛門の蔵の壁を塗る。地酒を1升を祝儀として出す。この日鈴木伝太が言うには、山本九郎左衛の屋敷を激しく荒らすと云々。壊した後の部屋を見て屋敷奉行が問い詰めると、物置部屋であまりに見苦しいので壊したと云…
宝永6年3月23日。昨日から今日の未(午後1時)までで文左衛門の蔵の屋根・土居・葺きが終わり、それから檜槫7丁を削る。7丁の代金は2分115文、ほかに駄賃が83文。
宝永6年3月22日。竹腰山城守の家督が相違なく同姓民部に仰せ付けられ、駿河守・主水の2人が山城守宅へやって来て申し渡す。民部の今までの知行5000石と屋敷は召し上げられ、帯刀のことは民部の面倒になるようにと仰せ渡す。山城守郷手代山田佐助が…
宝永6年3月21日。この日から文左衛門の蔵の壁の下地を3人がやって来て行う。大須でこの日から十三郎の狂言、演目は丹波与作。昨日明け方、太鼓を叩いて廻っていた。竹腰山城守郷手代山田左介が昨日味鋺川に身を投げて死ぬ。32歳であった。大小刀を差…
宝永6年3月20日。文左衛門は蔵の柱立、棟上げを行う。日用1人庄蔵、召仕1人市兵衛、召仕1人市右衛門と僕2人と合わせて6人。昼前に終わり、棟上げに御酒ならびに麻1緒・鳥目500文・するめ1枚を上げ、それに酒1升を添えて大工に持たせる。強飯…
宝永6年3月19日。巳(午前9時)から文左衛門は丹左・同子瀬左・八郎右と竜泉寺へ出かけ、あちこちで酒などを頂き、険しい道や坂を通りながらとても楽しむ。夕暮れに帰る。