名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

2024-02-01から1ヶ月間の記事一覧

隼人正さんキレましたね

宝永5年2月30日。少し前、主馬家老三和七左衛門が紋付の熨斗目を拝領し着用する。隼人正は江戸でこれを聞き直接申し上げる。先年山城・隼人両家の家老に紋付を拝領と願い出たが叶わなかった。それなのに今では陪臣であっても紋付の拝領をゆるされるとい…

まだ金左衛門

宝永5年2月29日。少し前、評定所東へ入った佐藤金左衛門召仕が無事許される。

うーん、財産が目当てか

宝永5年2月26日。半右娘おくめもこの日濃州各務郡大洞村玉田武平に嫁ぐ。武平は男女4、5人も召し抱えていた。牛・馬1匹ずつ持ち、田地も80石ほどあり、他に山も持っていた。昨年妻を亡くし、子が3人あった。

そりゃ逃げ出したいわな

宝永5年2月23日。巳(午前9時)頃、磯姫様の通行を市兵衛で拝見する。(後略)磯姫様は寅刻(午前3時)に梅昌院様へ入られる。そこからすぐに輿で出られるはずが、日用の中でもめ事がある。遅れて辰刻(午前7時)に入られ、連枝様方と初めて対面なさ…

嘘かいな

宝永5年2月19日。昼から文左衛門は円右・平左と西天山石山寺へ出かける。興正菩薩の作で江州石山の仏と同じ木から作られたと云々。このことは誤りと信章の言葉あり。2月1日から開帳し、5月12日に閉帳と云々。

大体部屋に戻れるぐらいだから傷は深くない

宝永5年2月18日。近頃、久屋2町目吉田若狭が宿を追放となる。近頃、玉屋町の紺屋が夜起き出して仏壇の下の脇差を取り出し、喉を貫いて脇差を元の場所に戻し、寝所へ入り伏せていた。うなったので人が見つけたと云々。翌日、町同心などがやって来ると紺…

確か昨年8月に吉見兵部は京都へ学問のためいってます

宝永5年2月16日。未半(午後2時)頃、御下屋敷長屋の徳右衛門という者は留守で、長屋には母1人と祖母がいた。たばこの火が燃え移り火事になろうとした。すぐに火を消し止める。徳右衛門は預りになるが、3月7日に無事許される。昨日、小笠原三郎右宅…

なぜ女房なのか11日の記事ではわからない

宝永5年2月13日。由右衛門の女房を町奉行のところへ呼び、詮議する。

どっちが悪人かよくわからない

宝永5年2月12日。文左衛門は役料手形を売り払う。1両で7斗6升8合、6両10匁ほど。和泉屋十三郎の芝居は5日で600貫の入り。おおいに人が集まる。尾崎重治郎に長く使える若い若党がこの日切米3分を借りる。駿河町の者に強く勧められて博奕をし…

文左衛門が言うように不可解、なぜ女房が処分されたのかよくわからないし、預け先も2ヶ所

宝永5年2月11日。文左衛門の住む町の東、阿知波理太夫借家に住んでいた当時小笠原三郎右馬屋の由右衛門の女房を理太夫に預ける。由右衛門の娘は奥田右門の家来の妻で、子もあった。奥田右門が江戸留守のためこの2人は母と一緒にいた。この2人も一緒に…

今と違って変動相場

宝永5年2月10日。この日頃、荒川次郎九郎が立太子の使いとして京へ出発する。近頃、銭売買の定めと大銭(10文銭)のこともあり、名古屋でもにわかに銭が高くなる。1分で1貫20文ほどがこの日の相場であった。

何をしでかした

宝永5年2月6日。平野彦三郎若党稲川太右衛門が牢に入る。

少し米の値段が下がったか

宝永5年2月1日。蔵の買留は4分、1両で8斗1升。

宝永5年2月の地震です

宝永5年2月2日。申半(午後4時)過ぎ、地鳴りがする。宝永5年2月3日。寅刻(午前3時)、少し地震がある。宝永5年2月9日。子(午後11時)頃、長く続けて地鳴りがすることが2度ある。その後また1度地鳴りがして、少し揺れる。宝永5年2月13…

宝永5年2月の天気です

宝永5年2月1日。雨が降る。巳(午前9時)から戌(午後7時)前までは雨が止む。東風が吹き始め、雲が乾(北西)へ流れて行く。雲が立ち込める。戌(午後7時)過ぎから1晩中雨が降る。宝永5年2月2日。雨が降る。時々、雨が止む。夜更けに時々雨が降…

確かに儲けもの

宝永5年閏1月28日。番頭日下次郎左衛門が近頃役を解かれる。(中略)日下は好色のため。女を高須から連れ来ることがあった。女を駒ケ岳から高須へ呼び寄せ、そこから名古屋へ連れてきた。供番吉田弥右衛門100石加増で津守様(松平義行)御用人となる…

ありがたや

宝永5年閏1月27日。近頃、黄檗東輪寺に五智如来を造立した施主は出来町の者であった。1貫5匁かかったと云々。

兵八が女を殺したのなら若党も殺されているはず

宝永5年閏1月26日。申刻(午後3時)、当時江戸留守の五十人林猶右衛門召仕の22,3歳になるはるという名の下女を平野彦三郎若党稲川太右衛門が呼び出し話をしていた。向かいの加藤弥五八の門の側東寄りで切り殺し、紙5、6枚を繋いだ巻物に書置と書…

これも見事な初期消火

宝永5年閏1月19日。辰(午前7時)過ぎ、住吉町西側、やぶ下近所の裏屋で火燵から火が燃え上がろうとするが、すぐに消し止める。山伏が住んでいたと云々。役人などが駆け付ける。

やっと金左衛門の裁きが終了です

宝永5年閏1月18日。昨年春に行方をくらました熱田大宮司の妻を山澄大膳・高木志摩・間宮造酒・毛利治部右に探し出せとのことであったが未だに見つかっていなかった。この日4人にもう探さなくてよいと仰せ渡しがある。評定所東屋敷で佐藤金左衛門が切腹…

今なら働き改革でアウト

宝永5年閏1月16日。近頃は御屋形へ磯姫様のことを話し合うため横井源五兵と熊谷与兵が毎日出かけていた。1日中で、その上夜は戌(午後7時)過ぎまでおられることが多かった。与兵は寄合にも出てこなかった。

隼人正って殿にもズバズバものいう人

宝永5年閏1月15日。江戸において昨日大久保加賀守から奉書がある。この日、成瀬隼人正が登城したところ大樹ならびに西丸様と対座で尾州への暇を下される。時服をいつもの通り下される。先ごろ隼人正からの3つの願いについて噂がいろいろとあった。ひと…

町人の子が武士の子をいじめるとはだいぶ時代劇のイメージとは違うなあ

宝永5年閏1月13日。渡辺飛騨守妾が男の子を産む。42の2つ子(父親が42になる年に2歳になる子は凶)なので服部平内の子とし、名も箕田源之助と名乗る。初めは仁左衛門と名乗っていた粟田十右衛門の子が町人を切って立ち退く。十右衛門は出来町あた…

1日中遊びまわってるのか

宝永5年閏1月10日。文左衛門は辰半(午前8時)から井上文右、同定ノ丞と熱田を詣でる。愛宕の社で酒などを頂く。そこから楽しみながら熱田へ向かう。熱田の茶屋で食事をし、申(午後3時)頃帰宅する。申半(午後4時)から文左衛門は勝蔵のところへ出…

姫の旅行は準備万端

宝永5年閏1月9日。磯姫様(綱誠娘)が江戸へ向かわれることとなったので、東海道の宿を見分しながら江戸へ向かってその様子を報告し、戻る際には宿を修繕するようにと靱負殿の家で作事奉行鈴木弥右衛門に申し渡される。手代は残らず、大工は4人もやって…

被害妄想なのか、それとも真実か

宝永5年閏1月8日。夕暮れ頃、御園町東条文蔵の南隣竹腰民部同心竹内紋右衛門という者が、七軒町下山下あたりの町屋の住む手習師匠をする牢人溝尾新平という者のところへやって来た。新平は近所に出かけていたので下女に頼んで呼びに行かせ、その上酒もを…

宝永5年閏1月の地震です

宝永5年閏1月1日。戌(午後7時)過ぎ、少し地鳴りがする。寅9刻(午前5時前)、少し地震がある。宝永5年閏1月2日。亥半(午後10時)と子(午後11時)に2度地鳴りがする。子半(午前0時)に大きな地鳴りがして、少し響き渡る。宝永5年閏1月…

宝永5年閏1月の天気です

宝永5年閏1月1日。晴。宝永5年閏1月4日。薄曇。近頃は連日曇りがちである。宝永5年閏1月6日。近頃連日寒い。朝に間はたいてい曇り、その後晴れる。風が吹くのは毎日のこと。宝永5年閏1月8日。快晴。朝はことのほか寒く、手水を見ると凍っている…

国府宮はだか祭の儺追(神男)、当時は拉致するように選ばれてました

宝永5年1月13日。甚目寺で辻番を務める山田彦左衛門が番に出ようとして儺追に捕る。すぐに暇を出す。

復興の足音が

宝永5年1月30日。東海道で破損した宿々の普請が行われる。手伝は松平越中守などが務める。これは割付金子(割当金)で賄われると。普請は勅使が参向前に終えるようにと。渡辺飛騨守家来小林杢右衛門の養子佐源次と渡辺佐夜之進は以前懇意にしていたが、…