名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

隼人正さんキレましたね

宝永5年2月30日。
少し前、主馬家老三和七左衛門が紋付の熨斗目を拝領し着用する。
隼人正は江戸でこれを聞き直接申し上げる。
先年山城・隼人両家の家老に紋付を拝領と願い出たが叶わなかった。
それなのに今では陪臣であっても紋付の拝領をゆるされるということなのか言いながら七左衛門のことを申しだされた。
公は大変困ってしまい、座を立ち、行かれてしまったと云々。
このため七左衛門は紋付を着ることができなくなった。
七左衛門は当地ぐだ(愚惰?)の五郎兵衛という町人の僕で三太郎といった。
それから五郎兵衛甥の長嶋町下竹屋町西南角酒屋岩井屋喜平治の僕となった。
その後主馬へ仕え、このように出世した。
喜平治父を宗丹といい、宗丹妻に医者小山林雪が密通していた。

飯田町養念寺の弟子順古という坊主が隣家の諸士の女(ムスメ)と通じ、近頃女の子を産む。
その母親の子として密かに外に養子に出す。
順古はたまりかねて瓦の奉加金14、5両を盗んで逐電する。
順古の前にいた坊主も養念寺の妻の親類唖の女を孕ませこの前逐電していた。

近頃、尾州家中五十人以下でも道中では乗物、角棒・引戸を目付に断らなくても何役でも乗ってよいとなる。
先年から道中での通し乗物は尾張に限っており、他国では何の決まりもなかったが近頃から同じとなる。