名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

冷静な殺人犯

宝永2年5月12日。
巳半刻(午前10時)、五十人目付山崎源兵衛・平岩弥五左衛門がやって来て、小野右衛門の死骸を検視する。
その後、内膳家来がやって来て死骸を見る。
内膳のところの者であったので、他へは見せるなと言う。
その後、内膳から礼使として冨田園右衛門がやって来る。
夕暮れ前、柚木鉄左衛門が請人のところへ桶に入れて請け取りに行く。
夜、大竹天外を妾とともに召仕草履取磯平が切り殺し、逐電する。
夜食を片付けている時のことと。
天外秘蔵の床にあった経光の刀を取り、妾を寝室で横バチ(側頭部)など3ヶ所刀で切りつけて殺し、天外は牡丹を見る2帖敷で拇指(親指)と横バチ2ヶ所を切りつけて殺す。
小便をしに行こうとした時か。
衣服を上に覆い、静かに裏門から逃げ去る。
隠居屋のかけが子(鍵の類か?)もかけてあった。
天外には下女が1人おり、この夜は家に帰っており、翌朝戻ると隠居屋の戸が開かなかったので不振に思い、又左衛門に告げて人々が行ったので初めて見つける。
辰刻(午前7時)過ぎにようやく見つけると。
あるいは、この妾は市浦五左衛門乳母の女で天外は寵愛し本妻のような扱っていたが、妾はとてもずるがしこく、人使いなども悪かった。
磯平を近頃使いにやり、帰宅が遅いと天外に告げ、縛った上に食事も与えなかった。
又左衛門などが今朝磯平を許したと。
何事においても夫婦の人使いは悪くこの如く。
磯平は40ばかりでこの2月に奉公し、それまでは杉立権右衛門のところにいた。
他国者で生まれもどこかはっきりしなかった。
もちろん名古屋に親類は1人もなく、請人は杉村の者であった。
磯平は主人を切った経光の刀を差して逃げ出し、志水の家で1泊し翌朝立ち去ると。
又左衛門の門は南は相応寺筋、裏門は北の町へ出ることができた。
そのため距離があり、声高に叫んでもわからなかった。
一 500石89歳隼人正家来大竹又左衛門は相応寺筋上辻番の側北東角で、其父隠居は末森に住む。其父が天外で又左衛門の祖父。天外の兄弟は多く、嫡女は山本九郎左衛門の母。
二 天外、初めは伴右衛門といい、隼人正家老。力強く肥大で贅沢好き、そして淫乱であった。隠居して小畑に住んでいた。その贅沢三昧は一々記すことはせず。小畑天外と自称する。慈眼寺開祖悦伝嗣法(法統を受け継ぐこと)であったので天外和尚という。三 大竹伝兵衛、亡伝兵衛の父は死亡。四大竹武兵衛、犬山におり、この度立ち退く。
四 加賀にあり500石取と。
五 美濃で浪人。
六 今村次郎右衛門。
七 今泉新右衛門母。
八 女子は江戸に嫁ぐ。
天外子には一、嫡又左衛門で今は末森に隠居。
二、甚左衛門は15人扶持ながらたわけ。
三、水野市郎左衛門は水野源兵衛の家を継ぐ。この度退いたが他の名を継ぐため隼人正から呼び戻される。退いた際には江戸にあり。
四、女子は兼松十左衛門の妻。
五、女子は服部善兵衛妻で死亡。
又左衛門を始め天外兄弟ならびに子は全員立ち退く。
天外は72歳。