名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

突いた咽の傷口から食べ物が流れ出る、どひゃー

元禄9年10月27日。
曇。
辰刻(午前7時)から雨が降る。
未刻(午後1時)、朝倉勘助が使いをして忠兵衛のところの事件を報告する。
文左衛門もすぐに出かけ、夜は泊る。
山田彦内・同安左衛門・勘助・惣左衛門・近藤惣右衛門らも共に泊る。
弥藤治の顔色は血のようで目は虚ろであった。
しかし、話はしっかりしており普段と変わらぬようで、皆と話をしていた。
ただし、時々おかしなことを話した。
外科村瀬幸介が弥藤治を治療する。
申刻(午後3時)過ぎ、五十人目付ふたりがやって来る。
しばらくして御目付沢井半兵衛・内藤与右衛門もやって来て弥藤治を詰問する。
弥藤治が言うには、誰に対しても思うところも恨みもなく、ただ何となくこのようになってしまったと。
目付衆は一々細かく書き記す。
大小刀・衣類・鼻紙袋さえも書き記して帰っていく。
この朝、50人小頭中川磯右衛門がやって来る。
夜には同小頭津金善次右衛門がやって来て、また細かく書き記す。
弥藤治の鼻紙袋には金子9両1分が入っていた。
自分がここで死ねば検断金(没収金)になってしまうのが口惜しいと思い、鼻紙袋から取り出し、川へ放り捨てたと。
1、2度この金を忠兵衛の方から探しに行かせたが見つけられなかった。
もしかすると四女子の宮の前で土地の百姓がこの金を拾ったと。
弥藤治は昨26日の昼前から家を出て、熱田新田奈屋四女子のあたりを徘徊し、夜になって松平無三下屋のあたりの土橋の側で脇差を抜き、咽を貫いた。
しかし、死ねなかった。
次に刀を抜き、左の手で鋒(ほこさき)を握り、腹の三四筋上皮を突き、わずかに傷つける。
左の手のには、これまたわずかな傷があった。
喉の傷は相当で、食事をするとそこから少し外へ流れ出した。
弥藤治はとても痛むようで顔をしかめた。
思うに、弥藤治は少し前から山田心都肝煎に妾を置いていた。
甚だ情を寄せ、心を観だしていた。
このため山田安左衛門や弥藤治召仕の婆などはこれを諌めていた。
また、女は弥藤治を恨んでいたとも。
生気を吸い取られ、思いは消えず、たちまちこうなってしまったか。