元禄15年11月29日。
伊予守へ当分高木八郎左衛門の空屋敷を貸される。
財政が厳しいので家中250石取に来年は馬飼料が下されないので、馬は持たないように。
300石取は組で持ち、売った際には早く次を買い求め、間が長く空かないようにするようにと。
近頃、高岳院近所榊原甚助が僕1人を遣わし、大門が閉ざしてあるかと客人(妾のこと、家の女房)を見に行く。
僕の部屋は錠がしてありながら敷居は外れていたので、怪しんで窓からのぞくと中に男が1人いた。
急いで外れたところから中へ入り、盗人の抜き打ちをかわして組み合う。
上へ下へと組み合う内にやっと捕まえ、誰か来てくれと叫ぶ。
盗人は急いで無理やり引き離し、脇差を捨てて逃げ去る。
少し前、馬廻肥田孫左衛門組渋谷弥太夫のこの秋の麦の収穫のことで百姓が訴状を目付に差し出した。
老中からこれを孫左衛門に渡され、孫左衛門はすぐに弥太夫にこの訴状の中身を確認し、申し開きをする書付を出すようにと。
弥太夫は是非を論じるには及ばないと言い、仰せの通りに書いてしまえば百姓に返事をすることになってしまうと承知しなかった。
このため泥仕合となる。
今年暮の年貢は百姓が田を刈らず、麦も植えなかった。
その他の所でも庄屋に納め、弥太夫には納めず。
身代を潰す覚悟だと云々。