名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

豊臣秀次の末路のようだ

元禄15年12月29日。
運上奉行吉田七太夫に縫殿の屋敷で申し渡しがある。
役を召し放たれ、馬廻となる。
委細は弥次右衛門が申し渡すと云々。
逼塞するようにと云々。
太夫は運上ごとに贔屓し、私欲もあると云々。
太夫は所々の川に昨年まこも(真菰)を植えさせ、そこの百姓に藻も取らせなかった。
このため魚も多くなり、運上金も多くなったと。
泰心院様(綱誠)のお考えの通りと申し上げれば、その通りにしておればよいと。
しかし、まこもなどが生え茂り、思うように水が流れなくなり、田は水害にあっていた。
また藻を取らないので糞に不自由していた。
そのためその地から運上を受けようと願い出るも許さなかった。
代官等との詮議があり、近頃評定所で大代官ならびに代官が立ち合い、詮議を行ったところ運上金の増額より水害による田の被害の方が多かった。
このため七太夫は言い詰められ、悪態をついたと云々。
特に加藤一郎兵衛がとりわけ言い詰めたと。
また、この夏に船で出て、かなり酒に酔って玄蕃殿の女中の乗った船に盃を遣わし、女中に一緒にどうかと頼むと云々。
口論となり、七太夫は槍を持って船に乗り移ろうとするのを押しとどめられたと云々。
この様子を名は老中が船から見られたと。
老中の名はわからず。
少し前、諸士は熱田沖に出ては不作法を働くと。
廻文は七太夫から出たと。
近頃、加藤伴左衛門の小僕を同じ家の若党衆が道で切り殺し、すぐに自殺する。
近頃、小田井村の百姓は昨年日比津村から養子を迎えていたが、実子が誕生した。
実子に跡を譲ろうと思い、養子をはなはだ疎かにした。
近頃着る物も悪く、正月用の着物を着ないことを人が笑うので継母に洗濯を頼んだ。
継母はもう来春のことにしてはと云々。
それならばのり米と糸を貰えれば外で洗濯してもらうと持ち出そうとした時、弟が脇差を差して出かけようとしてこれを叱りつけた。
兄は自分の脇差は見苦しいのでしばらく貸してくれと言ったが弟は聞き入れず、兄の脇差を放り投げてこれを差せと云々。
自然と脇差が抜けて兄の肩を少し切ってしまう。
兄は我慢ならなかったが人々が集まりなだめた。
その夜両継親はわが子に何としても跡を継がせようと思い、今夜殺してしまおうと思った。
わが子と話し合い、番太郎を1両で頼むと番太郎は承諾した。
後日自分に難が降りかからぬよう手形を望み、これを受け取った。
鈍い刃で殺したのでとても苦しみ、這いまわるところを無理やり殺そうとすると柱に食いついて死んでしまった。
死後離そうとしても離れなかった。
この様子を見て恐ろしくなり、北一色から僧を招くが、詳しくは説明しなかった。
僧は500文の布施や斎を受けずに帰り、怪しい様子は寺社奉行の耳に入った。
日比津の実父はこれを聞いて我慢できなかった。
20両でおさめようとしたが聞かなかった。
終には訴え、悪人らは全員召し捕らえられる。
尾張の昨年の酒の醸造は114160石あまり。
今年は84007石あまりでこれは5月に記録したもの。
京都・大坂・奈良、所々の都会を記すとそれほど多くはないのでよいのではないか。
醸造を半分にせよと言いつけになる。
大公下屋敷の添地の一部が大道寺玄蕃・織田宮内・渡辺新左衛門・高木八郎左衛門の4人に渡る。
その後、厳了院様(松平友重)空屋敷へ変わり、この添地の一部は戻される。