名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

2024-04-11から1日間の記事一覧

あなたは酒で消毒してる

宝永5年12月30日。先給先請の廻文が来る。近頃、西新町東側大道寺駿河守同心坂崎伝五右衛門が逐電する。これは坂崎諸悦の甥で三弦引佐右衛門の甥でもあった。少し前、六曜星下ということを人が言い流行らせる。(後略)今年の秋から冬にかけて疹がとて…

飛脚の真似をしてはいかんでしょう、鍛え方が違う

宝永5年12月28日。桑名から乗ってきた船がこの夜熱田まで1里(1里は約4キロ)ばかりのところで潮が引いてしまい、船を岸に寄せることもできず、深夜で迎えの船も来なかった。中に届ける期日の決まった飛脚がおり、夜明けまで待てないと1人海に飛び…

年の瀬の資金調達

宝永5年12月27日。文左衛門は米3石を理右衛門に売払う。1両で7斗5升替え。2両は今受け取り、2両は来年正月に受け取る予定。3人の子殺しが土器野で磔になる。妻子や兄弟は追放となる。

今の給付金詐欺のようなものか

宝永5年12月26日。辰半(午前8時)から円水へ出かける。歳暮のためで酒や食事を頂く。それから広小路へ晒され者を見に出かける。源六は3人の中でも老人であったが、意気揚々として少しも悪びれた様子もなくあたりを見回し、残りの2人はかなり弱った…

極悪人の3人組

宝永5年12月25日。この日から広小路牢屋の前に里子を殺した者3人が晒される。

見ているだけですか

宝永5年12月24日。文左衛門は堀留の水中に死体が永らく流れているのを見る。

どちらも悲惨だ

宝永5年12月23日。この夜、巾下作事小屋北の道、橋の上に3,4才ぐらいの男の子が捨ててあり、口から血を流して死んでいた。近頃、成瀬内膳が死ぬ。足の指から腐り始めて体中が腐って死んでしまう。癩疽(ラツソ)と云々。

ドジな泥棒

宝永5年12月22日。近頃、八三郎様の坊主衆松浦千弥が評定所の東屋敷に入る。松浦千弥は日頃盗み癖があり、物がなくなることがあった。近頃、同僚の坊主に板敷きの釘を抜いておくので何時にここの畳を上げてくれと頼んで縁の下にはい入ったが、頼まれた…

これも被害は少なそう

宝永5年12月20日。夜、伊勢の地蔵のあたりで火事がある。

これでは理由がさっぱりわからない

宝永5年12月17日。茶道安藤春賀が自殺し、屋敷を召し上げる。以前2階から落ちて身を打ち、よくなって屋敷を廻っていて中に入り、自害する。

侍ってやつは

宝永5年12月13日。少し前、奥田弥左衛門は橘町で20両ばかりの道具を手に入れたが、主馬の威を借り代金を持って行かなかったと云々。亭主が子を連れてやって来て、奥田忠太夫側の辻番で脇差を抜いてわが子に差させ、自分は訳があって弥左衛門殿のとこ…

何のこっちゃ

宝永5年12月13日。織部こと野崎九典が疹(はしか)で死ぬ。年は60ばかり。九典の父謙山は90あまりと云々。五十人扶持を下される上に、清左衛門から90両、源五右から20両ずつ毎年合力金(援助金)を受け取っていた。贅沢はなはだしく、妾も多く…

かなりの大火事

宝永5年12月16日。子刻(午後11時)前、法華寺町三尾惣右衛門南の町屋から火が出て南の辻まで残らず焼け、辻から西へも10間(1間は約1,8メートル)ばかり焼けて静まる。火元は夕雲伯父の中村六左衛門後家了清という尼であった。

見たくない

宝永5年12月15日。広小路に婆の屍を晒す。

結局何をしに行ったのやら

宝永5年12月14日。卯ノ刻(午前5時)、文左衛門は八郎右・丹左とともに熱田へ出かける。瀬左は駕籠で出かける。文左衛門と八郎右は参詣する。粟田福大夫に借金を頼もうと辰半(午前8時)前に着いたが、福大夫は早朝から名古屋へ上納金を渡しに出かけ…

伝左衛門1人で探し出せるのか

宝永5年12月13日。伝左衛門は今まで名古屋に入ることはできなかったが、理右衛門が死んだことで尋ねに出る者が伝左衛門1人になって貴重であったので、まずは厳寒の時期であるので家に戻り、休息してからまた尋ねに出るようにと彦兵は申された。このた…

嘘はバレなかった

宝永5年12月10日。近頃、都筑理右衛門の屋敷を空け、妻子は儀兵衛へ引き取る。

確かに以前の分まで徴収されてはたまらない

宝永5年12月12日。文左衛門は巳(午前9時)から一郎左の頼母子会のため八郎右へ出かける。瀬左と一郎左の2人に落ちる。吸物・酒などを頂き、すぐに夕飯も頂く。口米・不同金の値段が変わり、7斗になる。このため不足銀を小頭に遣わす。11日以前に…

大人数で調べも大変だ

宝永5年12月9日。この日、先日預けられた博打打を平岩七太夫のところへ調べのために呼び寄せ、31人が現れると。尚庵召仕も現れた。13日のところに委細を記す。

これも生臭坊主だな

宝永5年12月8日。近頃、尾張平張(針)村にある秀伝寺の者が同村百姓の女と通じた。この女は隣の村へ嫁いだが、ある日行方がわからなくなった。婿の方からいろいろと手を尽くして探し、秀伝寺を物色して終に寺の中に隠し置いていたのを探し出した。僧を殴…

元禄14年12月5日にも同様の記事があります

宝永5年12月7日。文左衛門は口米判形(印形)に出かけ、3両3分と8匁1分を出す。

郡八ってかわいそうだなあ

宝永5年12月6日。花井勘右衛門は惣町代見習となる。惣町代は岡田作右衛門という者で長者町に住んでいた。一昨日から飛騨守中小姓窪田郡八36歳は山内茂平治に預けられていたが、この日切腹となる。山内茂平治は飛騨守給人で呉服町に住んでいた。飛騨守…

ただ何のお金なんでしょうか

宝永5年12月5日。源太左から15両の割符金(割当金)半口と2分と479文がやって来る。この日、理右のことが片が付き、6日の晩、養念寺に葬る。

この時代、博奕には厳しいです

宝永5年12月4日。諸士の中間及び町中でばくち打ちが預けられる。9日のところに誰の召仕ということは記す。佐枝尚庵の六尺(下僕)彦助という者を尚庵に預けたところ、取り逃がしてしまった。しかし、町中手配し、桜の町通り大津町のあたりで捕まえて連…

困った時は神頼み

宝永5年12月3日。公が疹(はしか)にかかられたので家老奥田主馬、城代衆は熱田・一宮・津島での祈祷や御祓を天王坊に集めて江戸へと向かう。本来は若宮であったが、松姫様のもめ事で当時住職がいなかったのでこうなった。

いろんなことが行われていたのですね

宝永5年12月2日。文左衛門は、咳気の神送り(厄払い)と御祓納(古い札を報酬をとって集める乞食)を禁止することをこの日聞く。咳気の神送りは、とても醜悪な顔を作るので不愉快であるからと。御祓納は乞食の手で包み紙を漉き直して紙として売り、板は…

どうも嘘が多い

宝永5年12月1日。この夜、都筑理右衛門が伝右衛門百姓の長良村作右衛門の家で病死する。実は尋ねに出ると言いながら、家に隠れていて病気となっていた。死んでから検分があることを心配し、作右衛門の家に遣わしていた。翌2日、彦兵殿家老近藤作太夫と…

宝永5年12月の地震です

宝永5年12月1日。戌(午後7時)過ぎ、地鳴りがする。宝永5年12月2日。未半(午後2時)、地鳴りがして地震がある。宝永5年12月8日。戌半(午後8時)過ぎ、地鳴りがして地震がある。宝永5年12月13日。深夜、地鳴りがする。宝永5年12月…

宝永5年12月の天気です。

宝永5年12月1日。晴天。宝永5年12月4日、夜更け、時々雨が降る。宝永5年12月5日。曇、時々霧雨が降る。宝永5年12月6日。曇、時々日が差す。夜、晴れる。宝永5年12月7日。風が吹く。昼から風が段々と強くなり、とても寒く。日が差すとこ…