名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

能が嫌いだった人もいたはず

宝永6年8月25日。
家督祝儀の能が辰半(午前8時)に始まり、未半(午後2時)に終わる。
昨日廻文があった。

連枝様方・見物諸士へ支度などは元禄7戌と同様であった。
白洲の町人にはこわめし(強飯)・まんじゅうを下されるが、三分の一にも行き渡らなかった。
この日だけは礼剣以上は長袴を着用した。
地うたい・つづみ打などもすわう(素襖)を着用した。
隼人正は階段そばまで長上下で参られ、能を始めよと言い、少し座について帰られる。
床几御免(最初は床几にかけず途中から床几にかけること)の時には切目縁までちょっと出られるが、この日にに限ってのことであった。
3日の間に礼剣以上は残らず出向き、そのほか国・町・熱田奉行、槍奉行、代官なども毎日出向いた。
町医者は3日の間に順に代わる代わる出向いた。
楽屋奉行は足軽頭津田平次右衛門・永田三右衛門、黒門頭千村助左衛門・鈴木九郎左衛門。
(能の演目省略)