名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

郡八ってかわいそうだなあ

宝永5年12月6日。
花井勘右衛門は惣町代見習となる。
惣町代は岡田作右衛門という者で長者町に住んでいた。

一昨日から飛騨守中小姓窪田郡八36歳は山内茂平治に預けられていたが、この日切腹となる。
山内茂平治は飛騨守給人で呉服町に住んでいた。
飛騨守歩行の者が介錯を務めた。
郡八は信州の者で、12年前に当地にやって来おり、初めは歩行の者であった。
飛騨守小姓渡辺佐夜之進はこの日名字を削り(家名断絶)、弟の給人50石山北彦三郎に預けられ、三州へ向かう。
これには山中義右衛門が付いていく。
佐夜之進は250石取で、今年17才であった。
初め渡辺日根ノ左衛門に男の子がなく、山北武太夫という者を婿養子にしていた。
その後男の子が生まれたが、これが佐夜之進であった。
武大夫が死んだので家督を継ぎ、小姓となっていた。
飛騨守は佐夜之進をとても寵愛しており、やがて家老にでもなる勢いであった。
寺部などへ出かけた際も駕籠で供として連れて行った。
郡八は初め武太夫のところに気安く出入りしていた。
太夫は死に際して、佐夜ノ進のことを郡八に頼んだ。
このため兄弟の契りを結んだが、小姓となると兄弟の関係も変わったと云々。
少し前、郡八は願い出て言うには、佐夜ノ進のことは実父が遺言して自分に頼んだことである。
当時は男色の気は少しもなく、勝手のことなどを時々会っては話していたと云々。
もっともこれは表向きの用人らの会合で、時々会っては身代などのことを話し合っていた。
しかし、いつの頃からか郡八の長屋へ佐夜ノ進が隠れて通い、また約束し合って誓詞などを取り交わしていた。
このことが露見し、飛州がとても怒ってこの如く。
佐夜ノ進も同罪を申し付けるところであったが、筋目(由緒)がある者なので大目に見てこの如くと云々。
郡八は良い若者で武芸なども多く心得、男だてする者であった。
切腹も手際が良かったと。