名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

やっぱり運の悪い人っているもんだ

宝永2年3月2日。
未上刻(午後1時)、深井丸足軽頭の巾下阿知波加右衛門の家から火が出る。
この時、辰巳(南東)の強い風が吹き、西北に向かって焼けて行く。
夕暮れ前にはおさまる。
文左衛門は城へ出向き、おさまった後直ちに政右と巾下へ出かける。
丹左・小一などを訪ねる。
類焼の者は杉山次郎太夫・菅谷弥太夫・安藤甚左衛門・奥平八右衛門・下条半弥・高麗十三郎・御細打・大熊庄兵衛・安藤杢左衛門・大脇所左衛門・鈴木市之右衛門・杉山勘之丞・佐分伊左衛門・西岡伴之丞・谷口安右衛門・中沢宗賢・井上宗悦・藤沢文右衛門・粟田六之右衛門・長岡五郎兵衛・兼松四郎右衛門、長屋が焼ける・小笠原左之右衛門、長屋は焼けず。
町人では土蔵は焼けなかったゑび屋を始め西へ1町(1町は約109メートル)あまりが焼け、北側ばかりが大方坊、その他九尺町・ゑびや裏の町屋が残らず焼ける。
阿知波加右衛門は元々と金持ちでその上ケチであった。
屋敷の木の葉・笹の葉や深井の松葉などを俵に入れ、積み重ねて置いてあった。
釜の火がこの松葉に燃え移ったと。
昨日、杉山次郎太夫は万三郎様の女中を2、3人連れて名古屋に戻っていた。
道中の戸塚で宿の隣で火事があったが、かろうじて逃げ出したと。
この日も出仕した留守に類焼にあったと。
中沢宗賢屋敷には壱岐守殿衆服部郷右衛門という者が借りて住んでいた。
郷右衛門は辰(元禄13年)2月7日の火事で新道の家が焼けてしまった。
同年の大晦日にも焼けており、今度とあわせると3度も類焼にあっていた。