名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

大火でけが人多数、でも活躍する者も

元禄15年11月18日。
夕暮れから増左・甚五右・多渡都を呼び寄せる。
小市も来るはずなのにやって来なかった。
詳細は甚右衛門甥伊藤久右衛門が乱心し牢に入るも、閂の壺金をねじ切り、小市の羽織を着て大小を差し、書置きをして立ち退いたため。
用があれば出てくると書いて巳刻(午前9時)に逐電する。
甚右一家は全員家にいたがこのことに気づかなかった。
後で見つけて大騒ぎし、方々を探し回った。
鍛冶屋町に伝左衛門という久右衛門の伯父がいたのでここを小市が訪ねて行った。
久右衛門は久しぶりに牢から出たので上手く歩けず、3回休憩していた。
ようやく伝左衛門のところへ入るのを小市が見つけ、説得して夜に駕籠の乗せて連れ帰った。
油断してはいけない。
子(午後11時)過ぎ、鈴木伊予守風呂屋から火が出る。
家の者は知らなかった。
伊予守は1人でいたが、物音を聞きつけ怪しんだ。
もう一度物音がすると風呂屋の方は赤々としていた。
驚いて唐紙(襖)を開けると火の気が頬を打った。
急いで唐紙を断ち切って、月番であったので御用道具を出した。
そうして隠居屋に行き、母親を連れ出しているうちに火は縁下に及び燃え上がったので道具1つさえを持ち出すことはできなかった。
子どもは乳母が甲斐甲斐しく抱きかかえて連れ出した。
御用箱は全て持ち出した。
土蔵と隠居屋と長屋西の方は4か所の1つが残って焼失する。
大門と共にその他は残らず消失する。
丑半(午前2時)過ぎに火はおさまる。
艮(北東)の風であったので評定所の屋根に2、3か所火が燃え付くが、すぐに消し止める。
夜中、伊予守は子とともに鈴木藤左衛門のところへ行き忍んでいた。
文左衛門は彦兵へ寄り、そこから鉄門へ出かける。
多門を開けさせて見廻って帰る。
弥次右・三郎右・九郎右・内匠・一右へ見廻って帰る。
少し前から伊予守屋敷では怪しいことが多かった。
ある夜には隠居屋の上に火光が見えた。
翌晩には植え込みの中にも見えた。
蝋燭の火のようだとも、火柱とも云々。
また毎晩渋紙をたくさん敷くような音が聞こえた。
ある夜には風呂屋の上に小僧と用人が上がり、音をうかがうとそこへ猫のようなものがやって来た。
この音が渋紙をもむような音であった。
これに驚いて小僧は棟から落ちてしまい、用人もこれにつられて落ちてしまった。
2人とも怪我をした。
この火事で飛騨守足軽も屋根から落ちる。
大いに打ちつけ、半死半生となる。
足軽頭朝岡平兵衛は足軽とともに大いに働き、翌年正月褒美として平兵衛に銀3枚、足軽に1分ずつ下される。
岡崎弥兵衛も一緒にお褒めにあずかる。
石屋孫右衛門長屋の西の方を引き壊し、西の方への類焼を止める。
焼跡には金100両ほどが焼けてあったと、500両とも、600両とも。
秘蔵の茶釜なども焼ける。
平兵衛はこの春にも江戸で火事のお褒めにあっており、これで2度目であった。
2度のお褒めならば必ず褒美が下される。