2024-05-01から1ヶ月間の記事一覧
宝永6年11月30日。主馬殿物見下の町屋4軒が用務のため召し上げられる。場所は木挽町と。4軒で12間(1間は約1、8メートル)と云々。替地は水道小屋の向かいで間口は倍に増え、引料は1間で8両が下される。
宝永6年11月27日。文左衛門は巳(午前9時)から瀬左へ出かける。加兵の頼母子会で吸物・酒などを頂く。日が暮れて帰り、すぐに八郎右へ出かける。酒や食事を頂き、亥(午後9時)過ぎに帰る。夜、鍛治屋町下の駿河守同心坂崎九左衛門のところへ、この…
宝永6年11月26日。来念寅の諸国巡見の輩へ向かった先での接待は無用、宿の修理なども無用、その上その地での売り物の他は取り寄せ、又下値で売ることなど細かく言いつけられる。
宝永6年11月25日。渡辺七左衛門と津金重治郎の2人は日頃からよく当たるので5寸(1寸は約3センチ)的を公が望まれ、最後に2本ずつ射てともに1本ずつ当てる。その内重治郎は真ん中に当てる。公が望まれたので勘左・六左衛門は4本ずつ射る。勘左衛…
宝永6年11月21日。不同金が8斗3升、代米金が8斗8升となる。今年暮れの蔵買留はなし。評定所東屋敷へ村瀬彦蔵・成田林蔵・南部戸太夫(イ分)・半助と名乗った五十人で今は小普請の小栗清太夫が入る。小栗清太夫は小普請で初めは半助をという名の五…
宝永6年11月19日。隠居を足軽頭以上に尋ねる廻文がある。
宝永6年11月18日。大工30人ばかり、その内きもいり3人が残らず刀を許される。大樹家及び紀国・水戸では刀を差していたので。永らく願い出ていたが、この日に叶う。申(午後3時)前、主馬殿居間の棟上が行われ、町大工平右衛門上下で祝った後、餅を…
宝永6年11月15日。出雲様(松平義昌)から京へ酒湯(疱瘡が治った後に浴びる酒の入った湯)の使いとして足軽頭韮山三大夫が尾張から向かう。
宝永6年11月12日。三宅又十郎・高橋庄蔵がともに揚り屋から七間町の牢に入る。駕籠に乗せ、足軽頭が警固する。絹の衣服は脱がせて木綿とし、その上名字を取り上げて名を変え、てこの者など卑しい者と同じ牢に入れる。
宝永6年11月9日。吉田七太夫は寄合に仰せ付けられる。近頃、新番吉田小右衛門が江戸より名古屋へやって来る。いずれも鷹についてのことで。出雲様(松平義昌)家中へ、財政が困窮しているので切米などの中から借り上げるとの言いつけがある。
宝永6年11月7日。近頃、来春の五畿七道順(巡)見27人が仰せ付けられる。
宝永6年11月2日。近頃、池鯉鮒(知立)で鍋島丹後守本陣へ紛れ者(泥棒)1人が入る。すぐに捕まえ、熱田で8人が番をする。
宝永6年11月1日。近頃、8尺(1尺は約30センチ)の大男1人を江戸へ連れて行くため8人で担いで熱田を通る。米2升に水8升を入れて煮るとひとすすりで食べてしまい、また数日食べないと。常に薬を持って舐めていると云々。詳しくは吉田氏の日記に有…
宝永6年11月2日。この明け方丑刻(午前1時)、供を揃え、寅刻(午前3時)、駕籠で出発する。小牧で昼をとり、二ノ宮を見物し、巳8刻(午前10時半過ぎ)、犬山に到着する。黄金10枚、時服10、刀、脇差を拝領、25枚と20枚と云々。末に詳しく…
宝永6年11月1日。乾(北西)の方でピカリと光って地が揺れる。酉(午後5時)過ぎ、大きな地鳴りがして地震がある。宝永6年11月8日。明け方、大きな地鳴りがして地震がある。宝永6年11月19日。明け方前、大きな地鳴りがする。宝永6年11月2…
宝永6年11月7日。未(午後1時)頃、しばらく雨が降り、申(午後3時)前に止む。宝永6年11月10日。池に氷が張り、硯の水が凍る。宝永6年11月11日。天気が安定せず、辰半(午前8時)から雨が降つ。巳(午前9時)過ぎに雨が止み、晴れる。昼…
宝永6年10月29日。久屋誓願寺大門を瓦葺にするにあたって、中の方から葺くようにと大工は言ったが、瓦師は聞き入れず表から葺き始めるとミリミリと音がして屋根がひっくり返り、道の向かいの塀際まで飛んで行った。未刻(午後1時)少し過ぎのことであ…
宝永6年10月28日。昨年冬から牢に入っていた博打打どもが残らず追放となり、その他に追放となった者が多くいた。前にも記した将軍宣下の祝いのためであった。佐枝昌庵召仕などの追放もこのためであった。
宝永6年10月21日。諸町七間丁木引のところに女房と縁のある者が居候して木引をしていたが、この夜細工所で腹を突いて死ぬ。
宝永6年10月20日。近頃、大塚性海寺から長久寺に入院する。近頃、山田忠殿が羽織をはぎ取られ、赤塚町在郷馬医森友碩もはぎ取られたととても噂になる。本当のことはわからない。この他あちこちで剥取・追剥の噂が多かった。昨年冬、善太新田茂左衛門の…
宝永6年10月18日。常憲院様廟完成につき金灯篭を差し上げる。出雲様(松平義昌)からこの日差し上げる。公からは1、2日前に差し上げる。2つで600両余りの出費と云々。10万石以下は石灯籠であった。
宝永6年10月17日。間宮造酒之丞が江戸へ使いとして出発する。水戸様の訃報があったので大樹(しょうぐん)への御機嫌伺のため。水戸へお悔みの使いとしては下条庄右衛門。以下の使いはこの日発したのではないが、この間の出来事なんで一緒に記す。生駒…
宝永6年10月14日。文左衛門は辰半(午前8時)前から瀬左・平左と橘町へ出かけ、まず若宮で弁当を食べ、その後犬堂で弁当を食べ、七ツ寺でならちゃ・あんもちなどを頂き、申半(午後4時)過ぎ市へ立ち寄り、夜、うどん・吸物・こち・小なよし・やき物…
宝永6年10月15日。水戸様逝去につき21日まで穏便の廻文がある。この日聞いたところでは千村・山村の両家は延宝午の倹約で馬を牽くのを止めていたが、この秋願い出てもとに戻す。江戸では尾州番頭も馬を牽く。
宝永6年10月13日。近頃、あちこちですり・小盗・しめどり(強盗か?)など多くあると云々。
宝永6年10月11日。江戸の出雲様(松平義昌)のところで13になる熱田大宮司千秋一学に料理が下される。昨日相応寺へ調菜(料理)が下される。近頃、馬場左京・田島丹波・岡部又右衛門に料理が下される。
宝永6年10月10日。申3刻(午後3時)、武兵丁と久屋の間大野小左衛門北の土地で24、5の女が首を左から3分の1ほど切られ、傘の中へ顔を入れて死んでいた。下に絹、上には木綿の粕谷忠右衛門の召仕女であった。切ったのは沢井助左衛門子の重左衛門…
宝永6年10月6日。この日、沢井織部が親内裏遷幸の祝いの使いとして京へ出発する。疱瘡となられたので11月26、7日頃に尾張に戻る。その間強に逗留したのでかなりの物入りとなる。
宝永6年10月1日。近頃、枇杷島の堤で石川靭負若党と中間が密夫(他人の妻と関係を持つ男)のことで喧嘩となり、女を切り殺し、その上2人で争った。中間は傷を負い、夜毛利治部左のところへ逃げ入り、喧嘩したと云々。しかし、その様子が怪しかったので…
宝永6年10月4日。ぼた(保田、東浦町御保田)へ殺生に出向き、夕暮れに帰る。宝永6年10月5日。巳(午前9時)過ぎ、建中寺を詣でる。宝永6年10月15日。昼前、御下屋敷に出向き、逗留する。宝永6年10月16日。巳半(午前10時)、御下屋敷…