名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

2024-05-01から1ヶ月間の記事一覧

宝永6年10月の地震です

宝永6年10月10日。亥(午後9時)過ぎ、地震がある。宝永6年10月14日。戌半(午後8時)過ぎ、地鳴りがして地震がある。

宝永6年10月の天気です

宝永6年10月4日。夜、時々少し雨が降る。宝永6年10月5日。辰半(午前8時)からわずかに雨が降る。巳(午前9時)過ぎに公が建中寺を詣でている間は雨が降らず、公が建中寺の門を出られた後また雨が降り、段々と強くなって申(午後3時)過ぎから止…

ちょっと薄情じゃないですか

宝永6年9月29日。評定所東揚り屋へ御目見高橋勝蔵・小普請三宅又十郎が入る。先手永田三左衛門がこの番をする。2人は悪事を重ね、盗みに追剝と世間で言われる通りであった。勝蔵は初め静石(シズカ)右衛門と名乗り、これは異称(別名)だとも。三宅の…

人の目がないと何をしでかすかわからない

宝永6年9月27日。野崎村の免は3ツ9分5厘と申し付けるとの廻文がある。但馬様(松平友著)小納戸飯沼文六添書1人に暇を出す。夜泊の規則を破ったため。

牢に入ると費用は関係者持ち

宝永6年9月25日。今朝、折平を道中編笠で牢屋へ行かせ、牢奉行へ渡す。この時は手錠を外して渡す。1日に黒米1升ずつ牢米、ほかに椀とござの代金150,160銭出て行く。

口が固い僕を雇わないと

宝永6年9月24日。廻文がある。殿様が昨日知多を巡見に出かけられるたで、この留守中は西鉄門の出入ならびに番人などは江戸留守の時と同様に警固するようにと目付衆から頭へ申してきたのでそのように心得るように。以上。申(午後3時)前、弥次右男折平…

たいてい盗品がバレるのは転売するから

宝永6年9月22日。吉見兵部は京へ出発する。官金のほか学文金30両を初めて拝借する。酉半(午後6時)、町奉行助左・七太から若尾弥治へ手紙がある。その大意はあなたの召仕草履取り半六という者に尋ねたいことがあるので取り逃がさないようにしてくれ…

こういう権限もあるのが殿様

宝永6年9月19日。円福寺が知積院へ入院のため上京する。この日御下屋敷へ行き、長久寺の前の住職が御目見する。以後円福寺と泊瀬と互いに知積院に入院するよう仰せ付けられると云々。

19日に植田山を案内する権平父子と同一か

宝永6年9月15日。滝川豊前の屋敷が霊屋を建てるため召し上げられる。作事奉行は平田半右衛門が命を受け、豊前には竹腰民部の上屋敷が下される。水野権平父子に金3分ずつが下される。これは猿を生け捕りにして献上した褒美として。

久しぶりに大好きな芝居

宝永6年9月12日。橘町で十次郎の狂言が行われ、女形ならびに衣装が許される。

まだ捜索は続いている

宝永6年9月11日。都筑伝左衛門は高野山を尋ねて熱田へ戻って来る。これから濃州へ行きたいと云々。

いつも仕事なのか遊びなのかはっきりしない

宝永6年9月7日。文左衛門は昼から弥次右と仕事で熱田へ出かける。石臼屋出店で弁当に酒を頂き楽しむ。帰路、沢ノ観音下桧木の上でまた酒を頂く。古渡閑道(脇道)から弥次右衛門は駕籠に乗り、日が暮れてから帰る。

今なら大腸がんの診断かも

宝永6年9月1日。村瀬弥二兵衛が死ぬ。46才。前日おびただしい下血する。これは脾か胃が破れて下血したか。

宝永6年9月の徳川吉通の動向

宝永6年9月2日。今朝寅刻(午前3時)、岐阜へ出向かれ、未(午後1時)過ぎ、岐阜に到着し、夕暮れ前に鵜飼を見物する。普段は12匹の鵜であるが、この夜は21匹が出る。加島勘右衛門のところに泊まる。宝永6年9月3日。卯刻(午前5時)、稲葉山に…

宝永6年9月の地震です

宝永6年9月1日。夜中に地鳴りがする。宝永6年9月8日。辰(午前7時)頃、多度(地名だと思うのですが?たびたびかも)地震がある。深夜、地鳴りがする。宝永6年9月29日。寅刻(午前3時)過ぎ、地鳴りがして揺れる。

宝永6年9月の天気です

宝永6年9月1日。曇。戌(午後7時)前から雨が降る。宝永6年9月2日。雨が降り、辰(午前7時)過ぎから止む。薄曇。夜は晴れる。宝永6年9月3日。快晴。宝永6年9月9日。近頃は連日快晴。宝永6年9月11日。巳(午前9時)から曇り、わずかに雨…

先ずは名誉の第一歩

宝永6年8月29日。新規の御目見があり、足軽頭以上の嫡男は独礼、以下は惣礼、五十人衆の子弟などは玄関にいて御目見する。公は現れて巡られ、帰られる。巳刻(午前9時)に始まり同8刻(10時半過ぎ)に終わる。御目見の数は300人余りと云々。文左…

しかし大騒ぎだな

宝永6年8月27日。出家・社家・山伏が能を見物する。初めと終わりの2度、襖が開き公が出てこられる。この日はとても多くの白洲での見物があり、急いで竹垣などを広げ、その上平地門の扉を外し、その外にまで人を入れた。賄方から切こわめし(強飯)2つ…

ずぶ濡れかよ

宝永6年8月26日。白洲に入った町人は傘を貸してもらったけれど、とても濡れてしまう。傘は天気がよくなれば取り上げた。能が終わると襖が開き、公が出てこられる。(能の演目省略)

能が嫌いだった人もいたはず

宝永6年8月25日。家督祝儀の能が辰半(午前8時)に始まり、未半(午後2時)に終わる。昨日廻文があった。連枝様方・見物諸士へ支度などは元禄7戌と同様であった。白洲の町人にはこわめし(強飯)・まんじゅうを下されるが、三分の一にも行き渡らなか…

太っ腹でなかった

宝永6年8月24日。長久寺は呼ばれたのでこの日出発し、江戸へ下る。愛宕に入院すると云々。昨日公に御目見し、金子100両を下される。これは間違いで大須が保証して30両を拝借する。

ドジだなあ

宝永6年8月22日。文左衛門は夕暮れ前から勝蔵のところへ出かける。甚左・甚太・才一・新蔵・治兵衛も居合わせる。寅刻(午前3時)、勝蔵が出発し、夜が明けて文左衛門は帰る。勝蔵出発の際、槍持森右衛門が足の裏を坂で古釘で突いてしまい、とても痛くて…

道中暴れまわれたら大変だ

宝永6年8月18日。秋元但馬守が鳴海に泊まられる。近頃、野崎金五左衛門若党が煩ったので召仕1人をつけて尾張に向かわせたところ沖(興)津で乱心し、刃を抜いて手を付けらない状態になった。このため江尻の宿へ引き取り、昼夜番をつけたのでとても金が…

これで鳥が食べられる

宝永6年8月14日。鳥殺生を許すとの廻文がある。

生類憐みの令のせいで鷹匠たちは仕事を奪われていた

宝永6年8月13日。山本作内は餌差頭に戻る。役を移された者も今後は餌差にすると云々。

優雅に踊り見物

宝永6年8月12日。昼過ぎから文左衛門は勝蔵・甚右に誘われて母・スメ・ヤツ・半之助と納屋へ出かけ、甚左の妻と縁のある孫左衛門というところへ出かける。そこには隠居玄周という夫婦が来ており、孫左衛門の案内で岐阜屋へ行き、桟敷で心静かに踊りを見…

何と言っても将軍様の代理だから粗相があってはいけない

宝永6年8月11日。上使本多因幡守が登城する。一 上使が名古屋到着の前日、宿へ城付水野弥次大夫。一 境川まで使者は書院番頭内藤浅右衛門。一 鳴海までの迎えは老中中条主水。一 鳴海での馳走人は大寄合触流津田新十郎、書院番頭生駒外記、旗奉行滝川又…

貸した方はたまったもんじゃない

宝永6年8月6日。横井十郎左衛門が江戸への使者を仰せ付けられ、昼過ぎに尾張を出発する。これはこの度(7月29日)大樹(将軍)が命じられたのは諸大名の借金を1万石以下は全て免除し、1万石以上は3分の1を今年の暮れと来年の春に返済し、3分の2…

宝永6年8月の徳川吉通の動向

宝永6年8月5日。巳刻(午前9時)、長袴で建中寺を詣でる。宝永6年8月7日。この日の朝丑刻(午前1時)、供を揃え、寅刻(午前3時)に衣冠を重ね定光寺を詣で、酉刻(午後5時)に城へ戻る。相応寺筋は提灯を出さなくてよいとのことで提灯を出さなか…

処分が厳しすぎないか

宝永6年8月2日。近頃、岩屋平右衛門召仕は年寄衆に礼をしなかったと押ノ者と争いになり、押ノ者は追放となる。平右衛門召仕も平右衛門自ら追放を申し付ける。