名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

2024-05-20から1日間の記事一覧

武士にもいろんな人がいるものだ

宝永6年10月29日。久屋誓願寺大門を瓦葺にするにあたって、中の方から葺くようにと大工は言ったが、瓦師は聞き入れず表から葺き始めるとミリミリと音がして屋根がひっくり返り、道の向かいの塀際まで飛んで行った。未刻(午後1時)少し過ぎのことであ…

行赦といっても無罪放免じゃなくて追放

宝永6年10月28日。昨年冬から牢に入っていた博打打どもが残らず追放となり、その他に追放となった者が多くいた。前にも記した将軍宣下の祝いのためであった。佐枝昌庵召仕などの追放もこのためであった。

どうしたの

宝永6年10月21日。諸町七間丁木引のところに女房と縁のある者が居候して木引をしていたが、この夜細工所で腹を突いて死ぬ。

罪人にとってはありがたい

宝永6年10月20日。近頃、大塚性海寺から長久寺に入院する。近頃、山田忠殿が羽織をはぎ取られ、赤塚町在郷馬医森友碩もはぎ取られたととても噂になる。本当のことはわからない。この他あちこちで剥取・追剥の噂が多かった。昨年冬、善太新田茂左衛門の…

何かと物入り

宝永6年10月18日。常憲院様廟完成につき金灯篭を差し上げる。出雲様(松平義昌)からこの日差し上げる。公からは1、2日前に差し上げる。2つで600両余りの出費と云々。10万石以下は石灯籠であった。

最後の何かってなんじゃい

宝永6年10月17日。間宮造酒之丞が江戸へ使者として出発する。水戸様の訃報があったので大樹(しょうぐん)への御機嫌伺のため。水戸へお悔みの使者としては下条庄右衛門。以下の使者はこの日発したのではないが、この間の出来事なんで一緒に記す。生駒…

こういうのを読むと嫌になる

宝永6年10月14日。文左衛門は辰半(午前8時)前から瀬左・平左と橘町へ出かけ、まず若宮で弁当を食べ、その後犬堂で弁当を食べ、七ツ寺でならちゃ・あんもちなどを頂き、申半(午後4時)過ぎ市へ立ち寄り、夜、うどん・吸物・こち・小なよし・やき物…

牽馬って単純に馬を引くでいいのか

宝永6年10月15日。水戸様逝去につき21日まで穏便の廻文がある。この日聞いたところでは千村・山村の両家は延宝午の倹約で馬を牽くのを止めていたが、この秋願い出てもとに戻す。江戸では尾州番頭も馬を牽く。

物騒だなあ

宝永6年10月13日。近頃、あちこちですり・小盗・しめどり(強盗か?)など多くあると云々。

何かの褒美

宝永6年10月11日。江戸の出雲様(松平義昌)のところで13になる熱田大宮司千秋一学に料理が下される。昨日相応寺へ調菜(料理)が下される。近頃、馬場左京・田島丹波・岡部又右衛門に料理が下される。

これも男女関係のもつれか

宝永6年10月10日。申3刻(午後3時)、武兵丁と久屋の間大野小左衛門北の土地で24、5の女が首を左から3分の1ほど切られ、傘の中へ顔を入れて死んでいた。下に絹、上には木綿の粕谷忠右衛門の召仕女であった。切ったのは沢井助左衛門子の重左衛門…

さっさと戻ればいいのに

宝永6年10月6日。この日、沢井織部が親内裏遷幸の祝いの使者として京へ出発する。疱瘡となられたので11月26、7日頃に尾張に戻る。その間京に逗留したのでかなりの物入りとなる。

喧嘩両成敗

宝永6年10月1日。近頃、枇杷島の堤で石川靭負若党と中間が密夫(他人の妻と関係を持つ男)のことで喧嘩となり、女を切り殺し、その上2人で争った。中間は傷を負い、夜毛利治部左のところへ逃げ入り、喧嘩したと云々。しかし、その様子が怪しかったので…

宝永6年10月の徳川吉通の動向

宝永6年10月4日。ぼた(保田、東浦町御保田)へ殺生に出向き、夕暮れに帰る。宝永6年10月5日。巳(午前9時)過ぎ、建中寺を詣でる。宝永6年10月15日。昼前、御下屋敷に出向き、逗留する。宝永6年10月16日。巳半(午前10時)、御下屋敷…

宝永6年10月の地震です

宝永6年10月10日。亥(午後9時)過ぎ、地震がある。宝永6年10月14日。戌半(午後8時)過ぎ、地鳴りがして地震がある。

宝永6年10月の天気です

宝永6年10月4日。夜、時々少し雨が降る。宝永6年10月5日。辰半(午前8時)からわずかに雨が降る。巳(午前9時)過ぎに公が建中寺を詣でている間は雨が降らず、公が建中寺の門を出られた後また雨が降り、段々と強くなって申(午後3時)過ぎから止…