宝永5年7月29日。
公儀御用の材木を請け負ったのは名古屋仙台屋孫三郎と南部屋善左衛門と申す者で、問屋は兵頭勘兵衛と云々。
怪しいことがありこのような者がいるかと公儀から内密に名古屋の有司(役人)に尋ねらた。
有司から話があり、町奉行が町中を詮議したところ仙台屋孫三郎・南部屋善左衛門いう者はいなかった。
その上、木曽山で桧角(ヒカク)3万本を切り出し、その内700本を白鳥に預け置いていると話していたが、木曽では上桧角を公儀御用ではいまだ1本も切り出していなかった。
北の丸の作事御用のため3年切出しは止められていた。
また白鳥にもそのような木はなかった。
兵頭勘兵衛という者は三州鷲塚の百姓で名古屋上畠油屋治左衛門の親類であった。
そんな時に、治左衛門伯母が江戸で大病との知らせがやって来た。
人を遣わしたいと申してきたので、密かに治左衛門の子を江戸へ遣わした。
このことが町奉行の耳に入り、今月25日に上畠に申しつけられた。
治左衛門の子を早速連れ戻すようにと町人2、3人が急いで江戸へ下った。
いかさま三州兵藤と治左衛門は申し合わせて江戸で役人衆をだまし、江戸の町人どもの金をだまし取ろうとしたかと。
また白鳥の飛騨問屋も同じ穴の狐かと様子をうかがったようであった。
職務怠慢となれ合いで処分
宝永5年7月27日。
卯半(午前6時)から文左衛門は瀬左・八郎右と豊場へ漁に出かける。
味鋺で弁当を食べ、文左衛門と加右衛門は網を打つ。
加右衛門は鮒や鮠をたくさん捕る。
瀬左は百姓紋七のところで休憩する。
うどんを出し、鮠を汁にし、その他それぞれ弁当を開いた。
八郎右と文左衛門で100文を婆に取らせた。
惣庄屋善蔵がやって来たので酒を飲ませた。
常安寺へ出かけ、帳を開けさせ、100文を供えた。
中の釈迦よりも左右の阿難・迦葉は俗っぽくなく、目を驚かせた。
夕暮れに帰る。
100石の山城守代官中村藤右衛門・新野浅右衛門暇を出され、城下遠慮すべきと云々。
中村藤右衛門・新野浅右衛門へ申し渡しの覚え。
一 毎年検見に出かけた際は詳しく見分し、入念に処理し、帰れば念入りに話し合って免帳などを書き記すようにと申し付けているにもかかわらず、いいかげんな見分を行い、帰ってもなれ合いの取り決めを行っていると聞き及んでいる。庄屋その他の村小役人どもの行いもよくなく、平百姓も困っている村々もあるとのこと。そのようなところは見分を行い、早速庄屋・小役人を替え、村々のためになるようにするべきであるのに贔屓してその身分のままにし、庄屋その他は分不相応な贅沢をして、村を困窮させたと聞き及んでいる。
一 まずは郷目付者どもが立ち合った上で取り決めた判形を整えたにもかかわらず、長話し合い、取り決めた後にこれを除外するのは不誠実であるので、やってはいけないと察せられることは正しく執り行い、目付の者が好もうとよく相談すること。それを嫌がるのは不誠実であると考えること。
一 先ごろ役儀を取り上げた際、日ごろから勤務態度がよくないと聞き及んでおり、役儀を召し上げると言いつけられ際も、迷惑とは思わず、役を解かれたのはかたじけないと言って、役人のところへ礼にまわったと聞き及んでいる。非がないなどと外へ聞こえたのは上を憚らざる行いで不届き千万とお思いである。
この他にもよくない行いが多くあると聞き及び、はなはだ不快とお思いである。
詮議なされ厳しく仰せ付けられたが、いろいろとあるので暇を下されようにとの言いつけである。
白林寺住職のことは来月18日に江戸寺社奉行へ出向き、妙心寺塔頭京桂林寺目安の件について申し開きをするようにと云々。
用心の越したことはない
宝永5年7月24日。
この日の明け方、渡辺八郎右衛門は召仕を桑名へ遣わした。
戻ろうとすると沖で大きな海鳴りがしたので船が出ず、25日に戻ってきた。
今年の能登の地震と同じように海底が隆起したのか
宝永5年7月23日。
近頃、いつもより潮がはなはだ高いと云々。
御材木奉行が言うには、近頃風雨のたびに高い潮が押し寄せると。
このようなことは20年来覚えのないことと云々。
大地震が原因かと。
言いたいことは言いましょう
宝永5年7月17日。
善悪の批判をしないよう廻文がある。