文化6年(1809年)。
その他、書店でも売って行き渡せる。
当寺へ奉納だと見物の者に糸代18銅ずつ、万人講の帳面に添えられた糸を切手(通行証)として仮屋に見物に入る。
片岡松助・大谷友次・嵐宗太郎などがやって来る。
小屋は開(ヒラキ、屋根がないこと)で、晴天の日だけ行われる。
開とは干小屋のこと。
そのため侍の見物も許される。
珍しいのでしばらくは賑わうが、この頃は日が短く、その上寒かったので、後には見物が少なくなる。
ここでの芝居は珍しいことで、この観音は賑やかなことを嫌うので古来から参詣日は決められていないと。
ただし升屋の西隣。
演目は身延山。
演者は竹内近江、同縫之助、政五郎、二蝶。
前狂言は日蓮聖人御法海 五段物 チンコ。
立は榊山金蔵。
敵は嵐とら(虎)蔵。
立は中村虎蔵。
実悪は藤川平五郎。
立役は谷村文五郎。
形は沢村国松。
同、中村富之助など。
前狂言が終わり、最後にからくりが行われる。
初めに日蓮上人の人形と妙星の童子の問答がある。
その後、枝を伝い、綾渡りなどを行い、日蓮の人形題目(日蓮承認御法海)に替り、童子の人形は□替り、それから襖を開き、身延山を披露し、いろいろと口上が長く行われ、その後、池上本門寺御廟となる。
雨の夜、2、3軒が焼失する。
この僧は高岳院の弟子と。
女1人は30才ばかり、もう1人は18、9の者で、3人とも睦まじい様子で本妻と妾のようにして周りを囲って置いたが、僧にはあるまじきことなので身を投げたように見える。
3人の心中は前代未聞の珍事である。
これは神社では特別なことなので、理由がなくては許されず。
しかし、この社は牢獄に近くて罪人の通行がよくあり、不浄の者が社をのぞき込んでとても迷惑していると強く訴えて願いを済ませると。
今の神主の大きな手柄と言うべきこと。
この日は突き始めで見物が多く集まる。
決まりごとは津嶋と同じ。
熱田で富が行われる際は、当り番附を広小路神明前へ書き出すのは先例だと。
そのため、この度もこの社前高塀に番附を掛ける。
生きた人のように見える。
ただし、使僧は許されて東懸所に入り、万徳寺は川口屋あたりから引き返し、宮宿に泊まる。
茶屋町あたり、広手矢来門のあたりは今までないような大騒動になる。
これは府下飯田町養念寺法話の一件が宗派の教えに背くこと、ならびに弟子の坊主に自分だけの欲に走る行為があり、師弟とも本山から厳しく吟味されることとなり、この度万徳寺に調べさせたところ、賄賂をもらって養念寺の意に沿い、道々養念寺の信徒と密談し、養念寺には少しも差し障りはないといいくるめ、適当に済ませるという考えが御坊の信徒の耳に入り、この企ての通りに養念寺が権威を増しては、御坊の末々に至るまで養念寺の思い通りになることを信徒は嘆き、この騒動になる。
弟子の坊主は岩塚村遍慶寺、森の願正寺など都合5つの寺で、これを俗に5人男という。
今夜の騒動は時節到来というべきこと。
そのわけは、使僧ならびに万徳寺の来訪は講中が知っているが、この万徳寺が裏切ったことを知る人は稀で何となく人気が集まり、夕暮れ前頃からは上町あたりではいろいろと噂し、見物に出かける者も多く、まるで大きな流れとなる。
このため、竹槍を拵え、矢来門に大勢が控えて騒乱が起こったかのように言い合う。
なかなか仏法のことなのでそのようなことが起こるはずもなく、前にも言ったようにただ何となく集まっただけで、準備してあれこれ相談したわけでもなく、自然にこのような騒動になったのは珍しいことである。
詳しいことは信徒や俗人に尋ねるべき。
菓子店のふりをしてもバレると思うのだけれど
文化6年(1809年)。
大般若経転読、投餅を行って賑わう。
幸い相撲取りなどが茶屋町で遊んでいたので頼み、6、7人がやって来て材木車を苦も無く懸所まで引くと。
大勢でも動かなかった大きな材木を軽々と引く相撲取りの力には驚くばかり。
長柄・草履などを使う。
12、3才の前髪(元服前の少年)を旦那に見立て、それぞれ看板に俄という文字を切り付ける。
目印に〇に内と書く。
古渡(ふるわたり)あたりからは見立趣向(故事などを身近にものになぞらえること)を出す。
その他はとても地味。
龍泉寺・甚目寺あたりは数多く出すと。
今年は厳しい触れが出て、提灯を数多く灯すことを禁止する。
もっとも、古来からどれだけ灯してきたか書き出すと申し出る。
このため、町々から提灯の数を差し出す。
総じて、例年より提灯は少なし。
ただし、上畠裏あたりの家並みでは提灯がこの年から始まる。
その他でも始まる。
今年数を差し出したのでこれが今後の基準となり、提灯を灯し始めたところが数多くあると。
竹腰侯船蔵、その他茶屋3軒ばかりが焼失する。
同夜、深夜になって大雨が降る。
演目は五大力恋緘、倭仮名いろは七文字。
朝祭りも大雨のため少しずつ巡行する。
このあたりから名古屋あたりは雨が降らず。
15日朝、激しい雷雨。
前日、片端の試楽は行われる。
雨の後なのでとても道が悪く、途中で雷雨に数多くあう。
片端のだんじりは雨間の日に済ませたが、若宮祭礼はようやく23日に巡行する。
若宮神主のもめごともあると。
総じて舞台も華美で、木戸には大提灯を釣ってとても華麗。
見物が毎夜たくさん集まり、評判も良い。
その後問題となり、このため熱田での御葭祭は禁止されると。
この火事には気づかず。
亥ノ刻(午後10時)頃、橘町裏来迎寺に輿を止め、奉納の音楽が行われる。
深夜になって信行院に輿が着く。
15日から8月14日まで開帳する。
境内の外には商人が店を出し、茶屋、あるいは歌、餅などがあり、毎日朝の参詣から夜の閉帳まで殊の外人が多く集まる。
また、夜分でも参詣は絶え間なく、賑わう。
この尊像仏の開帳には、度々やって来ているのにもかかわらず人が多く集まるのは尊いことである。
同じ時から同所慶栄寺でこれと同じ期間、廿四輩の中の信州松代本誓寺親鸞聖人瀬ぶみ阿弥陀仏、その他霊宝を数多く弘通する。
書院で三蔵楼田鶴丸(岩田田鶴麿)社中の狂歌花灯会が行われる。
見事な作り物が数品で華麗。
題は四季混雑(四季の題材が入り混じったもの)。
その後、2、3ケ所でも火が出るように仕掛けたあったが、燃え出したのをすぐに消し止める。
24日頃から広井あたりの屋敷でも騒ぎ出し、町々でも見廻りの増番などが始まる。
特に宮町・駿河町あたりは木戸を閉め、辻々を警固して吟味すると。
山口あたり・巾下あたりも皆騒ぎ出し、しばらくすると収まる。
同様にインコ鳥2羽を出す。
青インコ・紫インコ、これを大紫と言って珍しいもの。
オウム鳥も見せる。
このオウムは先年から度々やって来ていると。
唐鳥は長生きすると。
下地は籠で拵えて雨合羽でこれを包んであり、よい細工。
もっとも、濡れ仏(屋外に置いた仏像)で、木戸には入(入口?)と山門の形を作り、両方に仁王を立てる。
この門はおおよそ大須の仁王門ほど。
これも籠細工に紙を張り、色鮮やかなものを作る。
仏の大きさは首から蓮座までおよそ7間(1間は約1、8メートル)あまりもある
京・伊勢などへも持って行き、繁盛すると。
この細工は古渡の絵馬師の作だと。
毎日参詣の者が多く集まるので茶屋・楊弓店などが次々と出来る。
上畠橋詰、西詰の南の川岸に大きな小屋を作り、大亀を水舟に入れて見せる。
このあたりでは見世物などが許可されていないので、菓子店ということにして菓子代として木戸銭をとっており、その後次々と同じように町家を借りて椽板などを外し、いろいろな見世物が始める。
上畠筋で人魚の作り物、西の方では大須で見せた白牛も見せる。
信行院前南の方では龍宮城のからくりで御殿と人形。
またゑれき照(エレキテル)もある。
橋詰北の方でも龍宮城のからくりがあり、これは海人の玉取りを見せる。
インコ鳥・オウムも夜分はこのあたりで見せる。
その他からくり的(弓矢遊び)の類が数多くある。
慶栄寺では雷獣(雷ともに現れる妖怪)を見せる。
先だって広小路で見せたものと同じもの。
昼夜ともの賑わいは仏の開帳に限れば、尊くありがたい。
知多郡・三河あたり、あるいは新田あたりからの堀川筋を船でやって来る参詣がとても多い。
供養として延長される。
7日間音楽・読経法会が行われ、参詣の者が多く集まる。
絵伝・宝物などは14日限りで終わる。
22日、本尊が出発して岡崎へ向かう。
北風が激しく、夕方から雷が鳴る。
夜中、風雨が激しく、枇杷島は8合ほどの洪水と。
ただし、田畑に被害はなし。
この秋、大きな災害もなく豊年だと。
村のあたりなどでは祭が殊の外賑わう。
このエトピルカって調べると、とてもきれいな鳥です
文化6年(1809年)。
1月。
1月1日、晴天。
2日、前日夜中から大雪。
近年には珍しく雪が深く積る。
府下では1尺(1尺は約30センチ)あまり積る。
中嶋郡の村々、特に上郡(丹羽・葉栗・中島・春日井の4郡)あたりでは2尺余りも積もると。
長い氷柱が下がり、雪が消えるのが遅い。
日陰や北側では12日まで雪が残ると。
15日から大須境内で南京小人形という名で操りの興行が行われる。
ただし、御堂北のひごや(日小屋、仮小屋)でで行われ、本格的な操りは許されず。
1匁銀札の通用が禁止される。
2月。
2月16日夜9ツ(午前0時)過ぎ頃、月がふたつあるように見える。
水蒸気のためと。
17日から50日間、春日井郡小松寺観世音を開帳する。
18日、南寺町西光院開山200年忌の法会が行われる。
20日から50日間、龍泉寺本尊観世音を開帳する。
□春日井郡、岩崎山観世音を開帳する。
□同郡□高蔵寺薬師を開帳する。
3月。
3月1日から13日まで前津楽運寺で参州佐々木上宮寺宝物を弘通する。
□大津町法光寺で、柳堂阿弥陀如来ならびに宝物を弘通する。
24日、橘町裏栄国寺境内で石地蔵の再建が終わり、移徒、投餅が行われる。
供養、参詣する者が数多くある。
昔、切支丹塚のあたりに6尺(1尺は約30センチ)ばかりの地蔵が建っていたが、1年前の火災の際に焼失して首だけが残っており、その後土の中に埋まって永らくなくなっていたのを、先年、南の方に裏門筋を開いた時に、新しくできた町筋の裏からこの首を掘り出し、今年、尊体を作り加え、首を繋いで全身の像として今のように建てる。
その供養として行われる。
先月25日、七尾天神の祭で博打を行っていたのを役人衆に見つけられ、役人と争いとなって激しく叩かれ、血を流したので地内が穢れる。
このため清めとして神祭を執り行う。
4月。
4月9日、昨年冬に召し捕られた西郷氏の召仕中間は、あちこちで人を突き殺したので死罪となる。
これまで次々と人を殺した様子を詮議したところ、酒乱によるものだと。
これといった動機もないので、重罪ながら出切(打首を皆に見せること)で獄門になる。
16日から若宮で芝居の興行が行われる。
演目は傾城揚柳桜、最後に浪花潟三汲(ママ)。
立役は中山舎柳。
同、嵐松之助。
同、中山金才。
同、中山文蔵。
実悪立役は中山文五郎。
立は姉川虎蔵。
敵は中山蝶九郎。
同、萩野半左衛門。
立役は尾上新七。
巳之介こと形は芳沢崎之介。
同、藤川乙吉。
円次郎こと芳沢いろは。
17日、祭礼が巡幸する。
三の丸から。
雨天、7ツ(午後4時)頃から快晴。
同夜9ツ時(午前0時)、呉服町8丁目井桁屋控裏の空家で火事がある。
1軒で鎮火する。
19日から25日まで橘町妙善寺七面堂で鰐口の供養が行われる。
この鰐口は直径2尺(1尺は約30センチ)あまりの大きなもので、当所では他にない品。
この供養の間、大垣信綱院が説法を行い、殊の外繁盛する。
説法が終わって七面宮の開帳が行われる。
25日には鬼子母神尊像も開帳され、参詣の者が多く集まる。
この頃、犬山の北、濃州鵜沼宿のあたりの山中に大鷲が住みつく。
その巣は大きな松の上で、材木・丸太などをくわえて来て巣をつくり、鹿の骨が多くある。
珍しいことなので見物が多くあると。
このような大きな鳥は住みつくのは目出度いことと。
この頃、日置の漁師長十郎という者が熱田の沖で珍しい水鳥を捕える。
何という鳥か知る人はなし。
鳥商いの者でも知らず。
東片端小菅氏でこれを飼う。
大きさはおしどりほど。
𪅃□(児に鳥、鵞)(ヒヤウジ)という島の鳥で、阿蘭陀近くに住むと。
島の産まれでヱトピルカ(エトピルカ・北海道近海産の海鳥)という鳥と。
南寺町大乗院で、大相撲の興行が行われる。
4月29日に土俵入り、5月2日、初日。
近年ではなかなかよい相撲だが、雷電・関ノ戸は参加せず。
東、雷電 玉垣 戸田川 関ノ戸 春日山 秀ノ山 鳴瀧 真鶴。
西、柏戸 鬼面山 大岬 荒馬 緋威 鏡岩 揚羽 音羽山。
(p232~p233)
物騒な世の中になってきた
文化5年(1808年)。
9月。
9月15日、月食。
6ツ(午後6時)頃から5ツ(午後8時)頃まで。
南寺町阿弥陀寺で江戸芝泉岳寺を開帳する。
立札の写。
江戸芝 泉岳寺霊宝弘通。
日本一幅 釈迦八相曼荼羅。
大般若六百巻法花八軸之文字廻り書画。
阿弥陀如来 善導大師御作。
摩利支天尊 大石内蔵助守本尊。
ならびに霊宝、その他四十七士武具など、
9月20日から15日間、当院において特別に拝見させる。
辰9月 阿弥陀寺知事。
20日、高田本坊信行院本堂の再建はまだ途中で、巳ノ刻(午後9時)、棟上げを行う。
棟梁は立烏帽子・狩衣に太刀を帯び、その他はそれぞれ風折烏帽子・大紋、式は厳か。
老いも若きも群れ集まる。
玄関前、東の庭には末寺の僧が集まる桟敷を南向きに設ける。
玄関の前には若い者たちからの作り物があり、銭100貫目で金灯籠を作る。
良い細工。
その他いろいろとある。
25日より阿弥陀寺の芝泉岳寺の開帳が始まる。
本堂正面に善導大師作の三尊、阿弥陀如来小仏坐像を安置し、南の外陣霊宝には四十七士の画像対の2幅を掛け、同西の間には釈迦八相の曼荼羅の大きな掛軸。
また、聖徳太子真像自画、上野日門(日光門跡)様筆の地蔵尊などを掛け、それより後堂を書院の方へ廻ると、四十七士1人ずつ1幅の画像を掛け、同所持の道具を出し、大石氏守本尊摩利支天の画像、また、秀頼7歳の筆による豊国大明神の名号。
その他、霊宝数品もあり、一見しただけではとても理解できない。
それぞれの絵解きはいずれも能弁である。
同寺内、堀江観音も開帳する。
同日、天道山徳林寺で法然聖人600年遠忌を繰り上げて執り行い、音楽も行われる。
当12日から説法も行われ、この日で終わる。
晦日(30日)から橘町の芝居でチンコの興行が行われる。
演目は柵自来也談 合巻十冊。
立は片岡仁三郎。
同、嵐来三郎。
立は花桐岩吉。
敵は百村友右衛門。
蘭蔵こと悪は嵐吉九郎。
立は市川重太朗。
形は嵐ひな子。
同、嵐国松。
同、藤川亀松など。
この狂言は江戸戯作者鬼武作の敵討本をそのまま芝居に取り込み、大坂表では団蔵・嵐吉などの評判を呼んだ狂言。
そのため、役者は良くないが、狂言を見に出かけので案外流行る。
10月。
10月、阿弥陀寺で泉岳寺の霊宝の開帳が14日まで延長され、14日午ノ刻(午前11時)、義士追善供養が行われる。
来年巳年、朝鮮人が対馬まで来朝のため、国々へ夫役人足銭を差し出すよう触れが出る。
当国にても町・村へ触れが廻り、費用の銭を差し上げる。
11月。
11月□日、小切手5部の銀札の通用が終わる。
□日朝、撞木町西郷氏屋敷の境で女が殺される。
また、前夜、高岳院前の屋敷でも女が殺される。
誰が切ったかわからず。
いろいろと噂があるが、この朝から西郷氏の男1人が逃げ去ると。
人々はこの中間の仕業と噂する。
知多郡野間のあたりで、金を盗み、夫婦と子どもを殺す。
5人が共謀したとのことで、それぞれ召し捕ると。
10日朝5ツ(午前8時)過ぎ頃、天道町清安寺借家の後家で火事がある。
2軒が焼失する。
同夜、橘町川田屋という古道具店へ中の留守を見込んで盗賊が入り、老母を殺し、金を盗って逃げ去る。
14日から若宮へ橘町の芝居を引き継ぎ、興行を行う。
少々入りが悪い。
演目は義経千本桜、姫小松子日の遊、往古昔曾根崎心中。
立は花桐岩吉。
同、市川七太郎。
同、嵐来三郎。
同、同龍蔵。
敵は浅尾団四郎。
悪は嵐歌七。
立は市川十太郎。
形は嵐国松。
同、嵐ひな子など。
18日から3日間、巾下大野彦三郎宅で稽古能が行われ、この内1日は翁付、府下の役者ばかりが演じる。
大須真福寺庭前へ江戸四ツ谷から大日如来の大仏の銅像1体を奉納する。
これを当寺へ建立する。
寄進のため長らく江戸上野山の下あたりを、幟を立て、大仏の首を車に乗せて引き廻し、往来する。
そのかいあって、近頃当寺へ迎え、本堂の中へ仮に安置する。
珍しいことなのでここに記す。
京都から当寺へ寄附があるのは、本州(尾州)の誇りというべきもの。
12月。
12月、家中役米上納の者たちへ御側寄物金拝借の願いが通り、皆拝借を済ませる。
当月1日、殿が中納言に任ぜられたとの触れがある。
15日、家中の者たちは全員祝詞を申し上げる。
この冬は寒さが厳しく、諸国雪が多いと。
ただし、当国はそれほどでもなし。
夜明け頃に東の空が赤く、燃えるようだと。
また、西北も赤い時がある。
これは大雪なるからと。
北美濃ならび三河あたりは近年稀な大雪だと。
24日、西郷氏の召仕中間を西の村で召し捕って追々詮議したところ、去年からあちこちで人を突き殺し、高岳院前・鐘(撞)木町2ケ所でも女を殺したとありのまま白状すると、これを皆は伝え聞いて初めて安堵する。
牢に入れ、その後死罪と。
(p228~p230)
異国人と乱心者を間違いますか
文化5年(1808年)。
5月。
5月、熱田馬の塔には東の村篠木の中から馬を献じる。
特に高田本願寺あたりの村々より多く出る。
清寿院内境内で大坂表で評判の桂文次という落し噺(落語)の名人が、いざり物語と名付けて噺の新しい演じ方を行う。
これは珍しいことである。
楽屋ではそれぞれ鳴物を入れ、歌などを諷い、さらに踊りなども行う。
また、噺の途中で後ろの唐紙を開くと、その噺の様子を小さな道具で表して次々とかえて見せる。こ
の道具の入ったものを一話一話の最後に一場ずつ噺す。
その他には鳴物入り、または素ばなしを2つずつ行う。
その前には弟子が3つ4つほど噺して、それから文次が演じる。
人も良く、実力もあるようで、特に踊りなどは拍子もよく名人で、大評判となる。
5月9日から若宮の演目が替る。
演目は伊賀越乗掛合羽。
大須本堂北で芸子芝居の興行が行われる。
18日、府下の馬の塔はとてもさびしいもので、四観音(甚目寺、龍泉寺、笠寺、荒子)へは数多くの馬の塔が出ると。
とりわけ甚目寺へは近村30ケ所あまりから出る。
下旬頃、大垣の殿が江戸へ下るので、伝馬町問屋場で荷廻しの者(配送)が駄荷馬に挟箱を両方に掛けているというのを問屋の主が聞きつけ、これは先年から禁止されているのでダメだと言うと、荷廻しの者はダメならば証文を書けと言い出して口論となり、問屋の主伴蔵に傷を負わせて逃げ去る。
問屋の者が逃がさないと追いかけたが、行方はわからず。
大垣の殿は池鯉鮒宿に泊まっていたが、使番に謝罪させ、また、家老、用人その他大勢が詫びに問屋まで出かけたのでようやく収まると。
いまだ決着していないとう噂もある。
珍しいことである。
知多郡亀崎の浜へ異国人1人が小舟に乗って流れ着く。
その地の者がこれを生け捕ろうとするが、力がいたって強くてなかなか手に負えないので、梯子で何とか召し捕って鳴海の陣屋へ連れて行ったが、一言も話さず、食事も摂らず、どこの国の者かもわからず。
後によくよく吟味すると、乱心者で近くの村の者だったと。
6月。
6月、この時期とは思えない冷やかさ。
帷子などを着た者はなし。
夜分には袷を着る。
とても納涼する気にもならない。
1日夜、袋町通御園を東に入ったところで、空から石が落ちて来て通っていた者が怪我をすると。
同納屋町裏中ノ切、古江川あたりの者が男女を殺して金を奪い、心中に見せかけたのを近辺の者が見つけて召し捕って牢に入れるも、この男女は濃州岐阜のそれなりの者で主従であったが、恋に落ちて当所へ駆け落ちし、長らくこの家に匿われていたが、亭主が次々と路銀をかすめ取り、その上に50両ほどの金を当て込んで殺したとか。
3日・4日、巾下大野彦三郎舞台で稽古能の興行が行われる。
江戸観世流日吉市十郎という者が京からの戻りに立ち寄る。
当時同流の名人。
その他、京片山九郎右衛門・同九郎三郎、京笛杉弥兵衛、江戸鼓服部惣三郎、同西村与惣、京大鼓能勢助次、同与次郎、狂言三宅乙九郎などがやって来る。
その他は当地の役者衆が出演する。
演目は別記にあり。
両日とも見物が多く集まる。
10日、熱田海保田から8町(1町は約100メートル)ほど東で上げ火・石火矢、いろいろと軍用船の訓練が行われる。
珍しいことなので見物が多く集まる。
ただし、見物船は禁止されたので1艘も出ず。
辰巳杁(いり)南新田堤では掃部頭様(松平勝長)の見物があるとのことで、人を遠ざける。
そのため、築地あたりの浜から上げ火を見るだけ。
それ以外は音が聞こえるだけで、遠くから見てもわからない。
宿屋2階の座敷などには人が群れ、夜になると店ごとに灯を張って見事である。
この日は朝から雨天で、夜になっても晴れ間はなく、見物の人々は茶屋・おかめや(おかめは熱田宿の私娼)上がり、思いもよらず銭儲けをする。
合武三嶋流船軍術試船数35艘で備立火業の次第。
一 5艘で10匁(1匁は3、75グラム)玉筒打仕形。
一 6艘で10匁玉筒打仕形。
一 3艘で弓備仕形。
一 6艘で右同様。
一 鯨船で100匁玉筒打仕形。
木砲10貫(1貫は3、75キロ)玉昼の合図。
紅白旗 中山文左衛門、藤村四郎兵衛、刑部善之右衛門。
双下煙 浅野三蔵、瀬田助三郎、徳本弥九郎。
黄煙柳 山崎七郎右衛門、山崎藤三郎。
白雲連龍 浅野三蔵、瀬田介三郎、徳本弥九郎。
班龍 中山文左衛門、藤村四郎兵衛、刑部善之右衛門。
黒雲連龍 浅野、瀬田、徳本。
競煙 井上重左衛門。
光雷鳴 浅野、瀬田、徳本。
水面の火器。
激波飛煙 中山氏、藤村氏、刑部氏。
夜の合図。
赤流星 浅野氏、瀬田氏、徳本氏。
爛花 中山氏、藤村氏、刑部氏。
柳火 佐藤伝九郎、同仁左衛門。
発揚星 浅野氏、瀬田氏、徳本氏。
細煙火 半田鉄吉。
柳火粟散星 木村甚太郎。
流星畳玉 大塩忠太郎。
細柳火 中山氏、藤村氏、刑部氏。
大円柳 浅野氏、瀬田氏、徳本氏。
満天白 中山氏、藤村氏、刑部氏。
船中の火器。
埋炮録 浅野三蔵、瀬田助三郎、徳本弥九郎。
序 11貫匁玉2つ、10段発乱玉(連発打上花火)。
破 11貫匁玉2ツ 同断。
急 11貫匁玉6ツ 15段段発乱玉。
躅水龍 中山文左衛門、藤村四郎兵衛、刑部善之右衛門。
以上。
西枇杷島では車の人形は許されなかったが、この1、2年曳くことは許される。
祭礼は10日・11日に最高潮となり、賑わう。
12日から、稲荷の芝居で大操りの興行が行われる。
当時、大坂表で名高い豊竹禁(ママ)太夫・竹本内匠太夫、その他竹本染太夫・豊竹鐘太夫・同宮戸太夫などが演じる。
三味線、竹沢弥七、鶴沢三二、同宗六、その他は略す。
人形方、吉田文蔵・同三郎兵衛・豊松伝七・吉田冠四・豊松国八、その他大勢。
江戸登り吉田辰造という女形遣いは名人。
所作事などはこれまでの人形遣いにはないもので面白い。
絵本太功記 十一段続。
終わりは恋(京)鹿子娘道成寺。
所作事は出つかいで華やか。
繁盛する。
17日頃から長雨が降り続き、19日・20日はいたって大雨、22日、23日頃には枇杷島はかなりの洪水と。
この度、家中役米出しの輩一同へ御側寄物金(困窮者への貸付金)が拝借が完了し、願書が出る。
広小路の夜開帳にこま廻しの名人がやって来る。
この時からここで三味線が許される。
津嶋の御葭が愛知郡中嶋新田に流れ着き、同五女子(ごにょし)村へも流れ着く。
天王崎御葭流しは禁止され、今年は神鬮で荒子村へ迎えて祭ると。
この間の大雨で、前津あたりから懸所あたりまで怪しげな木の実が降ると、離すことができないようなものと。
閏6月。
閏6月5日から南寺町大乗院で両関大相撲の興行が行われる。
東、玉垣・荒馬・春日山・真鶴・揚羽・桟シ(かけはし)・糸ケ浜こと繯キ・浜ケ関。
西、三嶽山・鬼面山・緋威・鏡岩・四ツ車・諭鶴羽・平岩・鋸・大鳴門など。
三嶽山は新顔で、相撲は下手。
力は強い。
鋸・繯キは良い取り組みで大入り。
8日から稲荷の大操りは替る。
この浄瑠璃に内匠太夫は出演せず。
演目は日蓮上人御法海 五段続。
麓太夫の申し出で、先年焼失した法花寺町本成寺がいまだ再建半ばなので、寄進として芝居の札を売り出し、その札を信者や支援者・講へ配ったので見物人が多くある。
会式(命日の法要)の場面では見物の男女が題目を唱え、賽銭12銅(銭)などを投げることが多くある。
これを集めて本成寺へ奉納すると。
この時、舞台正面に掛けた題目の一軸は麓太夫所蔵で、世に稀な大切な品だと。
終わりに彦山 毛谷村の段を内匠太夫が演じる。
最後に兜軍記 琴責の段。
内匠太夫・麓太夫・宮戸太夫の出語り・出遣いは評判よし。
14日、津嶋試楽祭礼が行われる。
先例により、閏月には2度行われる。
御先手頭は1人が馬で出向くと。
清須の花火も行われる。
清太夫から大筒を上げると。
中杉村の道端で捨橋の側の四軒家に馬頭観音の石像を建てる。
これは府下屋敷方馬屋の者どもが馬の安全のために建立したと。
21日にはわたまし(渡座)が行われ、餅を投げ、人が多く集まる。
15日から橘町大芝居の興行が行われる。
演目は傾城高砂松 袖日記八冊。
江戸立役は荻野伊三郎。
同、尾上紋三郎。
立は中山文蔵。
江戸立役は市川八百蔵。
立役は市川市蔵。
敵は大谷門蔵。
敵は坂国こと山村友右衛門。
悪は中山文五郎。
立役は片岡仁左衛門。
若女形は沢村田之助。
形は姉熊こと姉川みなと。
同、坂東豊吉。
江戸女形は中山富三郎など。
その他は略す。
この狂言は華やかで評判が良く大入り。
晦日(30日)からこの芝居では終わりに東鑑御狩巻 三の口切(段)を演じる。
7月。
7月4日、大須で理源大師900年忌法会が執り行われる。
末山8ケ寺、その他の僧が集まる。
この夏より佐藤氏が不思議な病で、腹の中で声がすると。
医家柴田氏が針で治療して伊藤氏は治り、この病のやりとりが評判を呼び、書付も出て世間に広がる。
この病は曇鳥(?)・天鼠(蝙蝠)の2つが腹に入り、いろいろと苦しめ悩ませると。
曇鳥は7月1日に去り、天鼠は7日に天に昇ると。
その形の図も出る。
25日朝4ツ(午前10時)過ぎから風雨が激しく、初めは丑寅(北東)の方から吹き、その後は北へ風が廻って強くなってとても騒がしい。
雷が激しく鳴り渡り、音が響いて雷なのかもわからない。
あちこちで大木が倒れる。
通り物があるとも。
未の刻(午後1時)から空は晴れて静かになる。
呉服町下の屋敷長屋などが倒れ、町家も被害がある。
禅寺町では寺の門が倒れたところもある。
津嶋あたりの洪水は風も強く、海辺の松並木はあちこちで倒れる。
その他村々の民家で崩れたところも多くある。
枇杷島川は洪水と。
8月。
当月も折々雨天で晴天は少なし。
大須門前に釣物の見世物が行われ、大釜を灯の心で釣り、あるいは立臼、その他重い物を釣り上げて釣花生のようにして花を生けたものもある。
大瓶に水を入れて猩猩の小さな張子人形の頭にのせたものもある。
また、石臼をれん(蓮台)につけて花を生けたものもある。
同門前で女の手づま(妻)、または男の足芸が行われる。
足で文字を書く。
頭に鉢巻をして筆を挟み、右の足と左の手との3本の筆で同時に松竹梅を書き、あるいは頭で絵を描く。
終わると足に鈴を挟み、三番叟を踏み踊る。
珍しいもの。
清寿院でおどけ(戯)開帳の見世物が行われ、四十七人の道具での寄せ見立物を行う。
シワノセンダクジと書いた立札も地口(洒落)で立てる。
面白い見世物。
(p222~p228)
法事にもかかわらず、人間の欲ってやつは
文化5年(1808年)。
1月。
1月1日、晴天。
9日、節分。
朝から雨が降り、夕方から雨になる。
維姫様(宗睦女、近衛基前夫人)が京都へ向かわれ、25日昼頃名古屋へ到着し、本町通りには見物の者が多く集まる。
直に御屋形へ入られる。
26日、御深井の庭へ入られる。
27日、建中寺を参詣し、それから御下屋敷へ入られ、夜になって戻られる。
28日、東御殿へ入られ、掃部頭様(宗睦弟、松平勝長)と対面される。
29日夜8ツ半(午前3時)に出発され、佐屋街道を行かれる。
28日、広井山の薬師境内に不動尊拝殿を造立する。
この日、棟上げの式を終えて大般若会を執り行い、人が多く集まる。
盗人2、3人が広小路の牢を破って逃げ出すが、程なくして召し捕る。
雨天の夜、瓦屋根を切り破ると。
2月。
2月、物真似や稽古浄瑠璃などが始まる。
大須門前で女曲馬の興行が行われる。
名人幾世こと野村柳吉一世一代と看板を出し、新狂言玉藻の前、同七化の所作事(七変化)、衣装も美を尽くし、見物が多く集まる。
桜天神の書院で狂歌連中が扇絵合(扇の品評会)を行う。
それぞれ謡曲の題として四季・雑の歌を添え、見立細工(作り物)は華美である。
委細は刷った図が出る。
2、3年前から村・町で浄土真宗の者が御大会と称して、祖師親鸞聖人550回忌遠忌を繰り上げて行い、信者は家内を普請して美味しい料理を用意し、衆僧を集めて法会を行う。
もっとも寺院でも、以前から檀家に寄進や修繕を頼み、寺の中は美しく飾り、大法会を厳かに執り行う。
そうこうするうちに町の家ではこれにあやかり、伊勢町杉の町の角の白木屋では大法会が行われた際、仏壇などを特に華美に拵え、催しもとても評判を呼んだので老若男女、参詣の者が多く集まり、門口のあたりへ菓子売・持遊び(おもちゃ)などの商人が店を出す。
町家では珍しいこと。
他の家でも餅・饅頭などを出す。
この時、古渡飴屋川口屋も華美だったと。
余りに評判を呼び、町々が競い合いだしたので町方役所より触れが出る。
浄土真宗祖師550年忌を繰り上げて行うにあたり、寺々では大法会を執り行うようであるが、町家においても法会を執り行うと聞き及んでいる。
信仰から身分相応に営むことはもっともであるが、競い合って寺々にも劣らぬほど華美となることは、要するに評判になりたいだけであり、宗旨の本意とはいいがたいことであるので時節柄もわきまえ、心得違いのないようにと役所で指示があったのでこれを伝える。
この通りに町中ならびに寺社門前町続、隅々まで漏らさぬよう伝えるように。
以上。
2月14日。
花井七左衛門。
町中町代衆。
これは花井氏から伝えらえたこととして触れを出す。
村へは指示があったかわからず、町方の触れにより静かに執り行う。
3月。
3月□水野山で御側衆の御小姓・御奥御番・御近衆ばかり追狩(追鳥狩)が行われる。
春日井郡下条村□を開帳する。
同郡、白山村円福寺観音を開帳する。
同郡、河原村薬師如来を開帳する。
芝居も行われる。
19日から大須で曲馬、石橋(しゃっきょう)の劇、その他新芸を演じ、評判が良く大入りとなる。
21日、本町通り玉屋町内蒲焼町上る東側の平子屋という瀬戸物店の裏家・土蔵で火事がある。
夜5ツ(午後8時)前頃だったので人が多く集まり、手際よく鎮火する。
24日から27日間、八事山興正寺本堂前で五重塔大供養を行い、毎日西山本堂から練供養を行う。
大童子・小童子など供養に参加する。
院主に日傘を差しかける者は烏帽子に白張(丁)。
その他の衆僧へは上下を着て差しかける。
また、この供養には山伏1人が法螺貝を持ち、先に立って練り歩く。
この時刻に、本堂簾の中で音楽を奏でる。
本堂西の庭の上から塔まで数十間(1間は約1、8メートル)あまりの通り天(歩廊)を渡し、その高さはおよそ9尺(1尺は約30センチ)ばかり、塔の四方には竹垣を結い、東の方に青い仏幡が2本、南の方には赤い仏幡が2本、西の方には白い仏幡、北の方には黒い仏幡2本を立て、四方の隅には黄の仏幡1本ずつを立て、塔中の上には赤地の水引を張り、導師の席には、宝蓋をかける。
白い絹で赤地錦の唐幡(からばん)をかける。
塔中の式はさまざまで塔の周りを廻って読経を行う。
散花など、合鉢(妙鉢を打つこと)、法螺貝を吹く。
この法会が終わると、また堂中で音楽が始まり、練りで堂の西の廻廊に入る。
この式が終わると、山の側東西に構えた高楼で投餅を行い、参詣の者たちが多く集まる。
この餅を投げる信者は16の村から寄附をすると。
律宗であるので鼠の衣の他はなく、華美なことはなし。
ただ、厳かに行われる。
この塔の供養ということは前代未聞で、当国では珍しいこと。
とりわけ五重の塔などは例がなし。
そのためか遠近から参詣の者が多く、特に府下の人々で参詣しない者はなし。
駿河町より松原ならびに当寺まで人の切れ間はなく、門前の茶屋、商人の店の賑わい、天道山には裏門南に茶屋を構え、酒盛りをし、近年覚えのない賑わいぶり。
西本願寺門跡が関東へ下る途中で当御坊へも立ち寄るが、宗祖の遠忌を繰り上げて執り行っていたが、江戸表へ届けていなかったので遠忌には立ち寄らず。
七ツ寺境内で登り綱という軽業の興行を行っていたが、八事山の賑わいに押されて静か。
この時、濃州谷汲‘たにぐみ)の開帳があり、府下からも殊の外多くが参詣する。
珍しい開帳のため人が多く集まる。
4月13日から若宮でチンコ芝居(子ども芝居)の興行が行われる。
演目は絵本常世話。
立は浅尾安次郎。
同、大友友三郎。
同、小川東蔵。
敵は片岡升右衛門。
同、山下又九郎。
悪は大友友次。
立は榊山談四郎。
形は嵐宗太郎。
同、松嶋千里。
同、沢村京三など。
16日夜半頃、日置金塚町内の去年行った焼場普請の材木小屋が焼失する。
祭礼の車を曳き出す頃だったので、広小路上では賑わいで全く気づかず、火の手も見えたと。
何分大切な日であったので伝馬町の火の見も見合わせたと。
17日、祭礼が巡幸する。
名代。
先乗。
押乗は堀与十郎、赤林新十郎。
同日昼過ぎ頃、御旅所(休憩所)の杉から火が燃え上り、近辺は大騒ぎとなるがすぐに消すと。
出火の原因がわからず、噂では御旅所のため下人どもの中で煙草の吸殻を朽ち木の穴へ入れたと。
27日、西懸所で京都池の坊の門人の立花・投入の会が行われる。
27日は投入、28日は立花の会。
本堂に大きさ5間(1間は約1、8メートル)の立花があり、三州あたりの門人が生けると。
書院を始め幾間も花を並べて見事である。
両日とも見物が多く集まる。
京都池の坊は江戸表へ向かう際、往復とも立ち寄る。
去年10月、江戸へ下る際は東懸所で会が行われ、この度の戻りでこの催しが行われる。
若宮芝居へ立の片岡松助、同片岡此蔵、実敵の片岡松右衛門、形の坂東豊吉4人が加わり、22日から終わりに藍桔梗雁金五紋を演じる。
この切狂言から役者もそろったので入りがよくなる。
(p219~p222)
いつの時代もデマは流れる
文化4年(1807年)。
9月。
9月、この頃、毎夜夕方になると、西南の空に申(西南西)へ向かって彗星が現れる。
9日、甚目寺の堂で音がして揺れ、烏が群れて大いに騒ぐと。
概して、月初め頃から、世間ではいろいろな奇妙なことを噂する。
また、先月府下七軒町のある町家の数珠の玉から蓮の芽が出る。
珍しいことなので役所へ差し出すと。
大須門前で猿狂言(猿の演じる狂言、猿廻し)の興行が行われて賑わう。
16日、一之宮で正遷宮が行われる。
17日巳ノ刻(午前9時)から昼過ぎまでの間、風雨が激しく、あちこちの木が折れて屋根を吹き飛ばし、夕方から風は静まる。
東寺町光照院で小角力(素人相撲や地方回りの相撲)の興行が行われる。
10日から始まる。
10月。
10月、東懸所で池の坊生花の大きな会が行われる。
玄関から座敷・食堂、その他幾間にも立花(花をつかって風景を表現したもの)・投入(立花に対して風情を重視したもの)が数百品。
見物が多く集まる。
海東郡萱津妙勝寺の上人に不届きなことがあり、寺からの追放を言いつけられる。
このことで法華宗寺院の歴々が遠慮(謹慎)する寺が多くある。
会式(日蓮忌の法要)の飾りは行っても、参詣の者には対面せずと。
概して、当夏から禅宗・浄土宗寺院でも風紀が乱れ、寺僧の追放などがよくある。
あまりの多くあるので書き漏らす。
当月初め頃、巾下小笠原氏屋敷で鳥網を張ると、珍しい唐鳥(外国の鳥)がこの網にかかり、鳥屋どもが聞きつけて買い上げると。
しかし、珍しい鳥だったのでなかなか売らないと話している。
この鳥は法応寺という鳥だと。
21日から若宮で芝居の興行が行われる。
名代は美濃屋浅右衛門。
座元は中村辰之助。
演目は日本花赤城塩釜。
立役は坂東重太郎。
同、花桐徳三郎。
立役は中村紋十郎。
敵は芳沢八蔵。
同、中村友蔵。
実悪は松嶋松右衛門。
立役は嵐与市。
金蔵こと若女形は中村のしほ。
同、山科甚吉。
同、中村大吉。
南寺町大乗院で中角力(番付け下位の相撲)の興行が行われる。
23日から3日間、巾下大野彦三郎宅で、伊勢、喜多流勝田記内という太夫ならびに鷺流・大倉流狂言師がやって来て稽古能(上覧能や勧進能以外の一般の人が見れる能)の興行を行う。
両日、翁付(最初に翁を演じる演目)で、見物が多く集まる。
28日、同人宅で狂言尽(能で狂言だけを演じること)が行われる。
それぞれ番付(演目)は別に記す。
東御殿で、この度大野へやって来て演じていた狂言方を呼び寄せて演じた狂言の演目。
宝の槌 奈良大倉流高安仁兵衛。
二人大名 京鷺流堀江治兵衛。
膏薬煉 山脇治兵衛。
狐塚 奈良大倉 石嶋房蔵。
縄綯 四日市山脇流鈴木吉兵衛。
鱸包丁 奈良大倉山田八郎右衛門。
花子 京鷺流板倉要蔵。
長刀応答 山口鉄六。
鼻取角力 奈良大倉西村長六。
伯母酒 谷城庄右衛門。
仏師 京鷺流清水長五郎。
鈍太郎 稲垣鉄蔵。
空腕 長六。
木六駄 早川幸八。
宗論 吉兵衛。
武悪 仁兵衛。
千切木 治兵衛。
以上。
11月。
11月、黄檗東輪寺に芭蕉堂を建立する。
今は建築の最中。
鳴海の千代倉に秘蔵していたものをここに安置する。
府下風雅を好む者を誘い、楽しみの場とする。
22日から若宮の芝居で切狂言を演じる。
演目は猿廻門出諷 堀川の段、源平布引瀧 二段目、三段目。
12月。
12月28日夜半過ぎより日置法然寺より少し東の綿屋から出火し、次第に四方に燃え広がり、西は橋筋坂上1町(1町は約100メートル)ばかり東まで焼失する。
東は本町通家尻まで、南は東輪寺側まで焼け、北は狭間の町の中ほどまで焼失する。
ただし、寺院には被害なし。
最近では大きな火事であったが、上町・本町あたりでは全然知らず、翌朝聞いて肝をつぶした者が多い。
焼けた場所を1本に延ばすと1里(1里は約4キロ)ばかりもある。
夜明け過ぎに鎮火する。
29日夜、急に風雨が激しくなり、辰巳(南東)から風が吹いて秋の台風のよう。
夜前、日置の焼け跡の灰を吹き上げ、弱い火があちこちで燃えてとても危険で、門前町・橘町あたりを始め、前夜の如くまたまた大騒ぎとなる。
広小路より上では知らず。
また、この夜、西の村では馬嶋甚目寺から清須宿または勝幡あたり津波が来ると言い出して大騒ぎとなり、女・子どもは泣き叫んでうろたえる様子は目も当てられるほどと。
夜が更けて風が静まり、皆安堵すると。
翌日、このことが府下へ知れていろいろと噂するが、日置焼場の弱い火が燃え上がったので、皆、声を張り上げて水だ、水だと叫んでいた声が風に乗って、馬嶋あたりまで聞こえ、津波のことを海の近くの村が叫んでいると思い込み、銘々が騒ぎ出したと。
そのため、佐屋街道より下の村々、新田のあたりでは何事もなく、ただ、風の備えていただけだと。
考えてみると見当違いだが、大騒動となったのはもっともなこと。
(p209~p211)