名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

こんな調査を命じられると嫌だなあ

正徳1年10月24日。
中根新六のところへ佐分源太左を呼ぶ。
昨年春御覧になった残り槍を御覧になられる、その上一昨年に書き出した後の新弟子の名と昨春御覧になった弟子の中で精を出して勤めている者、あるいは怠けている者、あるいは病気になった者、役儀のことなどや途中でやめた訳の書付を出すようにと云々。
今度は一流派を1日で御覧になられるので人数の多少は関係ないと云々。
源太左のほか昨年御覧になられた師いずれも同意され、先日小笠原半平・源太左へ内意があった。

近頃、奥向きに節約を言いつけられる。
紙1枚であろうと側用人の指図がなければ渡さないようにと坊主衆に言いつける。

家を建てる時はそこがどんな土地であったか調べましょう

正徳1年10月21日。
少し前、鈴木伝太夫は伏見へ着くと腹を下し、いろいろ試したが回復しなかった。
願い出て京に向かって養生する。
1日に人参を2分、後には3分ずつ服用するがよくならなかった。
今月1日から医者が変わり、人参を止めると回復に向かうようであった。
恩田藤蔵も伏見へ着くと重い痢病にかかった。
弟が願い出て看病に向かった。
幸いにしてよくなった。
伏見の屋敷は永らく湿地の畠に小屋を作っていたので、寝具などは湿って濡れたようになるくらいであった。

兄思いだったんだ

正徳1年10月15日。
小賄頭佐藤九大夫に暇を出す。
領分には居づらくなったと云々。
仕事については不届者であった。
翌16日夜、九大夫弟奥茶堂小頭萩了益が自殺する。
兄のことなどで借金があったか。
但し、久大夫の家族を引き請けていた。
家計がどうもならないと心配していたが、ふと乱心してしまったかと云々。
父は大工小頭萩庄兵衛であった。

確かに金の使い方を間違っている

正徳1年10月17日。
困窮に付き100両拝借していたにもかかわらず、近頃中川庄蔵は20両を出して遠山与三介と屋敷を替える。
人はこのことをあれこれ話題にした。

近頃、細野伝三郎が乱心する。
初めは出雲守様(松平義昌)衆で今は浪人、巾下に住んでいた。

献上の馬と鷹が通った際の事件

正徳1年10月15日。
沖野一郎右衛門は押者の頭をはった粗相のため役を解かれ、閉門となる。
与兵衛殿の宅で申し渡す。
その際の押者杢左衛門は20年あまり勤め、場を考えてよく我慢したと金1両を下された。
今まで煩っていたが回復する。
弟が出向き、前々の通り勤めるようにとのこと。

なぜ預けられたのかわからない

正徳1年10月9日。
栄山七平次は御深井から堀川へ出て篠島に流される。
江戸の者で御内証(内室?)の者で乱暴者であった。

安藤権兵衛に馬廻吉田半左衛門が附いて木曽路を戻り、この日到着する。
加藤作ノ右衛門の子らが出迎える。
権兵衛屋敷は御園にあり、母と子6人がおり、妾であった。
子の1人は今月4日に生まれていた。
七夜が過ぎたので、屋敷を渡したいと屋敷奉行に内々話があった。
伯父供番兼松甚之右衛門に預けられる。
半右衛門は3、4日して江戸へ下る。