名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

失礼かもしれないが、たんなるデブな子ども

文化元年(1804年)。
9月。
9月1日夕方、水主町の御葭で神楽・湯立が行われる。
車2輌を曳いて来て、獅子舞などいろいろな珍しいものが行われる。
同日、2日の夜明けに御葭を船に乗せて熱田の沖へ流し、広井の町々からは飾り舟や、幟などで見事に飾ったひらだ船(平田船)の4人乗り7艘で送る。
夜になり、帰りも囃子ながら戻る。

この秋、大豆年貢だといって村々で畔に作った豆の年貢を取り立てることがあり、とても厳しくて騒動となるが、やがて中止となって村々は静かになる。

大須の庫裏が建ち、出来上がる。

愛知郡岩塚遍慶寺にて二十四輩(親鸞の高弟二十四人)の中の三ケ月寺親鸞聖人真作の像ならびに宝物を弘通する。

24、5日頃、広井花屋町あたりで火柱が立つと。
このあたりでは厳しく用心し、秋葉山へ代参する者も多くある。

広小路神明宮社内で府下素人交じりの稽古浄瑠璃の興行が行われる。
ただし、先月下旬より始まっている。

10月。
10月10日夜丑の刻(午前1時)頃、広井鎌倉長屋というところで出火する。
江川端戸田道北の後ろの町家が数多く焼ける。
焼け死んだ者もある。
火元が定かでなく、厄介なことだと。
今年は以前の火事から33年だと。
この時焼け死んだ男は、その夜に親子喧嘩をして親に火鉢を打ち付け、その火が方々に散らばったのを何とか消し止めたが、火が椽の下に残っており、夜が更けてから燃え上がって火が出る。
終には、男は焼け死ぬと。
実に親不孝な男であったので天罰か。

12日より稲荷社の芝居地において、両関大相撲の興行が行われる。
西は錦木・揚羽・陸奥・清見潟・雷・階(きざはし)魁。
東は柏戸・四ツ車・水引こと九龍山・荒飛・国船風・岩化座・唐等。
また、大童山文五郎という幼い前髪の有名な相撲取りがやって来る。
生国は羽州村山郡長瀞村百姓の倅で当年で16歳、背丈は5尺(1尺は約30センチ)2寸(1寸は約3センチ)、体重は45貫目(1貫目は約4キロ)あまり、腕廻りは1尺8寸、腹回りは5尺9寸、乳の間は1尺5寸、太もも2尺9寸5分(1分は約3ミリ)、変わった姿の人物である。
江戸表では5、6年前から興行に出ているが、相撲はとらず、土俵入りだけである。
上方筋、当地では相撲をとるが、あらかじめ勝負は決まっている。
なかなか相撲をとることはできない様子である。
書画などを行うようだとか。
かなり書かせた者もある。
何分不格好なものである。

清寿院境内にて人形芝居の興行が行われる。
太夫(以下2行欠文)。

大須門前にて手影絵の業を見せる。
評判が良い。

19日夜明け前頃、地震がある。
かなり強い地震である。

27日より、大須芝居にてチンコ(子ども芝居)の興行が行われる。
立は藤川浅吉。
敵は中村亀蔵。
立は嵐徳三郎。
形は中山虎吉など。
初めに加賀見山故旧錦、最後に敵討縷襤(ママ)錦。

書き落し。
当9月16日、摂津守様(高須藩主松平義居)卒去につき、当日より10日間、物静かにする。
作事は5日間、鳴物は10日間。

29日、竹腰小伝治殿死去につき、3日間物静かにし、普請は許される。

10月16日より大須の狂言が替り、女夫三番三を中山虎吉、嵐徳三郎が演じる。
隅田川江戸絵姿を演じたところ、評判を呼ばず。

26日巳の刻(午前9時)、七ツ寺惣門の手斧始めが行われる。
この日、仮屋にて作事の儀式が行われる。
神酒・綿苧(麻)、あるいは大根にて岩に波、日の出の見立が1台、寒天のりにて山に人形の形を作り、1台、山の芋にて山の形を作って飾る。
三社の幣帛(へいはく)、その他何れもいつもの通り。

12月。
12月9日、南寺町寿経寺鐘楼堂の棟上げを行う。

府下玉屋町で初めて墨を製造する。
永楽屋東四郎が引き請け、いろいろ新しい墨を工夫し、絵を描く輩が思い思いに珍しい絵を描き、唐墨(書道用の墨)の形もいろいろある。
中でも、文化墨などというものがあり、これは新製の御蔵墨(?)である。

少し前、奥田町外れの田で珍しい亀を捕えた者がある。
府下の某がこれを買い求めると。
この亀は甲羅の尻に長い毛が生えている。
その尾は幾筋もあり、その下に普通の小さな尾があると。

20日夜4ツ(午後10時)頃、鐘(撞)木町善光筋西へ入った大田氏長屋で出火し、同向かい中村氏長屋が類焼する。

29日寅の刻(午前3時)、法花寺町本成寺が焼失する。
住持ならびに庫裏を世話する姥が焼死する。
本尊も残らず焼失する。
いろいろな噂がある。
姥の甥は悪党だとかで金を無心に来たところ、住持が金を貸してくれなかったので叩き殺し、姥も絞め殺して御堂に火を付けたと。
この夜は雨が降っており、遠くで知っているものはわずか。

この頃から米小切手で5分銀札ができて通用する。

(p167~p170)

お出かけ大好き聖惣院様、あっけなく亡くなってしまった

文化元年(1804年)。
5月。
5月10日より若宮の芝居は最後に花洛清水夜開帳を演じる。
この時より坂重が出演する。
これまで役者9人の他は許されなかったが、近頃、15人を番附に出すことが許される。

15日より橘町の芝居が始まる。
名代は大和屋宗三郎。
演目は三十石艠始 五冊物。
この演目の間は大芝居の役者ばかりが演じる。
立役は嵐猪三郎。
同、中山小三郎。
同、百村金五郎。
敵は坂東国蔵。
立役は中山兵太郎。
同、大谷虎蔵。
敵は浅尾友蔵。
実悪は大谷友右衛門。
立役は関三十郎。
女形は中山一徳。
同、中村粂三郎。
同、浅尾綾二郎。
女形は芳沢円次郎。
同、中村粂太郎。
その他囃子役は略す。
この興行は、城下では大芝居が珍しいので大評判となる。

18日、馬の塔が出る。
聖惣院様が御館へ引かせて御覧になるので町々へ触れがある。
近年稀な賑わいで笛・太鼓・すり鉦・鼓・三味線で踊り、所作・俄などは種々の趣向で美を尽くす。
見事なのは内屋敷の伊勢参りの御木挽、納屋橋あたりより出した百足山、上御園の神輿太鼓、その他寄せ物、見立、細工は小田原町の神輿、干物の寄せ細工など。

19日、七間町下富沢町で礼馬(馬の塔の翌日行われる馬に変わって人が練り歩く祭)が多い。

近頃、世間で怪しげな教えを広め、人を惑わし、地獄・極楽を拝ませなどすると。
次第にこのことが知れ渡り、吟味が厳しくなり、府下を大いに騒がせる。
首謀者をかなり召し捕る。
皆俗人ばかりである。
門戸宗の中で新しい教えを起こして勧めると、口止めをして誓いたてるので、噂ばかりで本当のことを知る人がいない。
これをふとんかぶりという。
首謀者は杉ノ町鶴屋新右衛門と。
縫屋の隠居で獄死する。

22日より、若宮で絵本太功記を演じる。

6月。
6月1日より町々で天王祭が行われる。
この夏は格別の賑わい。
広小路大津あたりでは提灯で弁慶車の形を拵えて若者が人形の動きをし、八百屋町にてお亀や(?)を拵えていろいろ趣向を凝らす。
その他、裏町あたりはまたまた大きな作り物で、書き表せないほど。

8日より橘町の芝居では最後の狂言で宿無団七時雨傘を演じる。

12日より、若宮芝居へ立役に三枡大五郎、女形に中村大吉、悪に市川友蔵、立役に坂東彦三郎、江戸の役者で名人、その他に囃子役5、7人を加え、次の演目を演じる。
仮名手本忠臣蔵、最後の景事(舞踏劇)は福哉色弓取で、市川友蔵、中村大吉、坂東彦三郎が演じる。
由良之助役の坂彦は当時日本一との評判である。
その他景事も受けがよく、大入りとなる。

14日、天王崎の試楽が行われる。
当年より初めて御葭流しの神祭を執り行う。
堀川通、あるいは熱田あたりから御葭迎えとして大勢が水中を泳いでやって来て奪い合い、御葭は西水主町が取る。
幣帛(へいはく、供物)は熱田が取ると。
今宵、船2輌も渡し始める。
2艘は絡みながら渡り、1輌は西水主町、1輌は天王崎より渡す。
船祭・御葭流しはともに享保年中に行われていたが、その後途絶えていた。
再興したか。

当月は雨が少ない。
雷鳴も春から全然なく、当月15日に雷鳴が鳴る。
珍しい年である。

17日より橘町芝居へ、当時、浪花の有名役者の嵐吉三郎が立役、叶珉子両人が女形に加わり、次の演目柳緑花白浪を演じる。
京・大坂で評判で、築柴(ママ)権六の狂言である。
殊の外大入りで繁盛し、前代未聞のこと。

24日、触れがある。
民部卿様(田安家三代斉敦)嫡子満千代様逝去につき、3日間物静かにし、鳴物を禁止する。
普請は許される。

西水主町は御葭の願いを済ませ、27日より祭が始まる。
作り物、飾り物などは、7月1日より太鼓屋形、社檀(祭壇)に模したものも建てる。

7月。
7月1日より水主町御葭が始まり、あちこちより献灯が多くあり、毎夜笹に提灯を持ち、囃子を打ち鳴らしてやって来る。
下納屋から南へは商人がたくさん店を出し、あるいは覗きからくりなどもいろいろ行われる。
まさに灯火星の如くとも言うべき。
天王崎下石橋のあたりより渡し舟があり、御葭参詣を乗せる。
ただし、3艘ばかり。

4日夜、納屋裏新屋敷で火事がある。

盆の間、踊り・梵天もなく静かである。
水主町御葭は賑わう。
川岸に舞台を設け、15日の夜には戸田道あたりよりの女子ども踊りを上演し、見物人が多くある。
16日には飾車に提灯を灯し、囃子を打ち鳴らしてやって来る、その他、獅子舞など次々と周辺から持ち来たり献上する。

19日昼前、勝川村で火事がある。

22日、春日井郡青山村禅寺で火事がある。

27日、聖惣院様が逝去につき、普請・音曲・鳴物が禁止される。
物静かにし、期日はおってと触れが廻る。

懸所裏門筋より橘町裏への通りが新たに出来て、同栄国寺南裏門も設ける。

8月。
8月、笈瀬川にて心中があり、一ツ榎という場所のこと。

14日、聖惣院様の葬送が行われる。
16日・17日・18日、建中寺において法事が行われる。
19日より物静かが終って日常に戻るので、あちこちの祭礼は徐々に行われる。
家中の輩は音曲の類を控える。
当月3日より普請は許され、9日より鳴物も許される旨仰せ付けられる。
葬送ならびに法事の間は物静かにする。

19日、水主町の御葭が行われる。
舞台の上に拝殿を拵え、神楽鈴の舞・湯立などが行われる。

この頃、江戸で流行り病がある。
朝に発病し、昼に死ぬという急病である。
これを鉄砲病と呼ぶと。
府下でも2、3人が死ぬ。
まじないの札がある。
この文字を書き、袴か帯に縫い付けると病除けになると。
(文字外字のため略)

広小路庚申良宝院では当年より秋葉宮祭礼が始まり、23日夜、試楽が行われる。
神楽は翌24日夜、護摩が執り行われる。

29日、大雨。
枇杷島は7合の水となる。
春日井郡瀬古村は大洪水。
とりわけ西美濃では洪水で水死する者も多くあると。

晦日(30日)、前津にて女を斧で殺し、男は八幡山で首をくくって死ぬ。
心中だと。
女は治療して助かるが、この男の霊魂が女に憑き、狂乱すると。

(p164~p167)

引き替え期間が2日間とはちょっと短すぎない

享和4年(1804年)、当2月文化と改元。
1月。
1月2日より、稲荷社内で芝居興業が行われ、狂言は敵討千手護助劔。
立役・実悪は坂東三八で江戸の役者と。
立は市川他蔵。
実悪は坂国。
立役は市川多喜蔵。
形は中村綱吉。
同、嵐山吾など。
皆々田舎廻りのチンコ芝居(子ども芝居)の役者ばかりだが、坂東国蔵だけが贔屓の者が多い。

8日、9日の両日に2朱以上の米切手(米手形)を引き替える。
平田所(尾張藩の御用両替)で古い米切手と新しい米切手を引き替え、大いに混雑する。
この日を過ぎれば古い米切手は通用しなくなる。
この春、町家の輩は昨年の御当金(御用金)のため殊の外倹約を申し合わせ、全員年頭の祝儀を止め、上下などを着用せずに袴だけで仏参などをするのみである。
祝言・仏事を始め客が訪ねることは止め、礼に出向くものも少しもなく、静かである。

10日、桜ノ町本遠寺で大黒天祭礼が行われる。
題目を数万遍唱えた信心の輩にから(唐)金の大黒天を与える。
当年は甲子の年のため、最初の子の日にこれを祭るとか。
子の日は10日である。

桑名町福泉寺にて元三会(元三大師忌日の法要)が執り行われる。
元三大師の尊像は、府下天台宗の寺院を廻り、鬮などを皆に与える。
野田蜜(密)蔵院の元三大師は自作で、本朝三十三体の中の江州三井寺より密蔵院へ伝来したのを迎え、昔から尊珠院を始めとして府下六院を巡廻していたが、近年訳あって、この像を迎えるのを止めて新たに画像の両大師を安置していたが、また、去年より御告げがあり、再び尊像を昔の通り野田より迎えに行き、正月三ケ日より毎日護摩供養を行い、同18日に大般若経を転読(経典をパラパラとめくって主要な部分だけ読み上げること)する。

清寿院境内で噺・物真似の興行が行われる。
その中で盲人が1本の糸を口にくわえ、小さな箱を持ってそこへ糸の先をかけ、これを指で弾きならすと琴・三味線の音が出る。
小歌・江戸歌などにあわせて、面白いものである。
古今稀な一筋糸だと評判がよい。

2月。
2月3日、桑名町福泉寺元三大師法会曼荼羅供養が執り行われる。

8日より清寿院芝居で竹田からくりの興行が行われる。
高野山女中案内という新しいからくりを演じ、ならびに前狂言では子ども芝居が行われる。
芝居は傾城花頂山 上中下。

9日より37日の間、南寺町阿弥陀寺にて洛北古知谷、弾誓上人肖像、ならびに霊宝を開帳する。
彼岸中なので特に賑わう。

18日より荒子観音を開帳する。

同日より東掛所において、前御門跡13回忌法会を執り行う。
5日間行われ、遠近よりの参詣が多い。

広小路にて雷獣と称して見世物が行われるが、夜ぶすま(ムササビなどの形をした妖怪)だとか。

同神明社内で咄物真似(とつものまね)の興行が行われる。

大須門前にて、女太夫の力持ちが伝馬舟に俵を乗せ、あるいは人を上げて担ぐ。
怪力というべきものである。

同門前にて山福という鳥の見世物が行われ、これは作り物である。

23日夜8ツ(午前2時)頃、熱田駅神戸の宿屋8軒が焼失する。

24日より海東郡伏屋村□にて、智多郡大野東龍寺の一光三尊仏ならびに霊宝を開帳する。

晦日(29日)より4月まで、愛知郡上野村永弘院にて、濃州高沢観音ならびに霊宝を弘通する。
開基三面四手聖人の像など、また、当院勝軍地蔵ならびに霊宝を開帳する。

27日より3月3日まで富沢町聖徳寺にて、河州古橋願得寺霊宝を弘通する。

年号が文化と改元され、25日に触れが廻る。
当年は甲子のため年号替ると。

大須門前にて、鯰橋源三郎が老年となったため暇乞のため寄物細工を見せる。
とんだ霊宝(開帳を模した見世物)と幟を立てる。

3月。
3月1日、聖惣(聡)院様、万松寺へ入られ、それより東懸所の桜を見物し、裏庭の築山より東の田を御覧になる。

同日より14日まで桜之町本遠寺にて、犬山本光寺妙見尊ならびに霊宝を開帳する。
毎朝4ツ(午前10時)に開帳し、昼頃より説法、次に音楽、稚児2人が花を捧げ、神酒を献上する。
説法の次に論議が行われる。

6日、聖惣院様が相応寺より大龍寺へ入られる。

9日より15日まで、建中寺で受戒会が行われる。

11日夜、榊の森で火事があり、社家も焼失するが、神社に被害はなし。
町通りの片側1町(1町は約100メートル)程が焼ける。

大光院法花一万部満願につき、供養法会が行われて山門の前に法花塔を建立する。
毎年千部法会を行い、当年で満願する。
この塔の下に経石(経を書き写した石)を埋める。
所望の人に寺より石を与える。
各が志の霊あるいは経文などを書いて納める。
当月6日より7日間、経を唱える。
人が数多く集まる。
この会中の間、法華塔、本殿の前、庭の上に飾り、その周りには28本の塔婆で垣とする。
供養の次第は次の通り。
15日、法華講式ならびに音楽。
16日、頓写大施餓鬼、音楽放生会。
17日、上堂、宝塔供養。
この上堂の式が終わって問答が行われる。
終わってから方丈廻りが行われる。
その後普門品で塔前へ練り出し、堂内まで輪になって行道が行われる。
終わってから山門の西の椽より餅を投げる。

15日、聖惣院様が惣見寺・西掛所へ入られる。

同日、灰取町来迎寺で棟上げが行われる。

同日、南寺町寿経寺で観音供養が行われる。

この間、本町御門西の堀で蛙合戦(蛙の交尾)が朝夕2度ずつある。

17日、来迎寺で遷仏供養が行われる。

寄木天道山を開帳し、大いに賑わい、酒を飲んで暴れる者も多いと。
荒子の開帳も3月末より賑わい、あちこちより馬の塔を献上し、参詣の者が多くある。
境内には小芝居、あるいは水茶屋、または曲搗きの歌の餅店もあり繁盛する。
その他、石仏村善昌寺の開帳なども繁盛する。
特に、寄木天道宮の本社修造が始まり、地方づきはあちこちからの寄進で賑わう。

世間では三日はしかというふき出ものが流行る。
大抵は麻疹の症状で軽いものである。
医書には出てこない。
風ほろせ(風邪の際に出る発疹)の類か。

4月。
4月8日、熱田の海より異様な大魚を網で引き上げる。
濃州岐阜で見世物にすると。

袋町延命院にて、宿泊する紀州高野山からの旅の僧が真言秘密伝来という説法を行う。
能化(指導的立場の僧)だと。
とても能弁で、面白い因縁話を交ぜ、大いに流行り、皆が群れをなす。
門の張札は次の如し。
説法 秘蜜念仏幷浄土日蓮両宗安土論。
天照大神 弘法大師 両相承いろは四十七字別訳。
高野山前悉地院英実法印会所当山。

清寿院のからくりは3月14日で終わって岐阜へ移り、また4月15日よりからくりの明玉変化台、狂言の傾城天羽衣を演じる。
このからくり・狂言とも不評である。

17日、祭礼が巡幸する。
名代は成瀬豊前守殿。
先駈は町奉行稲葉重郎右衛門、宇野朱左衛門。
押は御先手物頭小見山只左衛門、大崎仲之丞。
聖惣院様・掃部頭様の二方とも昨年亥と同じように両所で見物される。
瀬戸物町の練り物は頼政・早太の衣装が替る。
宰領2人のうち、1人は練り物に仕立てシツカワ(ママ)(?漆工)を持たせ、都合3人になる。

桜之町円頓寺院主、末寺松葉村円長寺には不正なことがあり、牢に入り、追って遠流を仰せ付けられる。
これは封金(封をした金子)の偽の封を拵え、いろいろとよくない行いがあったためと。

大須庫裏の再建の地築が始まり、あちこちより寄進がある。
かけ銭・青さし(銭に通す紐)、いろいろな作り物を拵え、地築の場所に飾る。
門前町の講中より青銅で孔雀を作る。
矢場町よりの松竹梅の趣向は見事である。

この頃、怪異(妖怪)の仕業か、男女の髪を切る。
ある人の召使いの女が髪を切られたという噂を確かに聞いている。
男でも切られた者があり、奇怪なことである。

27日より若宮芝居の初日、この度より太鼓矢倉が許され、追って橘町始め皆が矢倉を上げる。
傾城東福山を演じ、名代は松本屋次平、千代屋七右衛門、座元は山下宇源太。
立は坂東重太郎。
同、松嶋豊三郎。
敵は坂東岩右衛門。
悪は水木東蔵こと中村歌五郎。
立役は尾上新七。
形は三枡小源太。
形は嵐鞍次郎。
形は叶才助、出演せず。

(p160~p164)

広小路の見世物は詐欺だよ

享和3年(1803年)。
9月。
9月、この頃、法花寺町□禅宗の霊供の茶湯が毎日なくなる。
寺僧が怪しんで位牌の茶湯を入れず。
中を空っぽにして置くと、本尊の前の茶湯もまたなくなると。
余りに不思議なことなので記す。

大須門前にて、玉本小金という女太夫の軽業が始まる。
とても上手で、竹を下げ、しゅ木(ブランコ)にぶら下がり、曲手鞠を行う。

20日、蝮池にて心中があり、女は40歳あまり、男は18歳と。
女は死に、男は半死と。

10月。
10月9日より、橘町の演目が替る。
初めは菅原伝授手習鑑、最後は義臣伝読切講釈。
三番叟は姉川藤次郎。
三社所作事は豊松あやめ、芳沢円次郎、嵐若松。
この芝居は評判がよく、それなりに流行っていたところ、今度替った狂言は、白太夫役の新四郎、桜丸役の兵太郎がとりわけ人気となる。
最後の狂言植木屋もよく当り、賑わう。

11月。
11月。清寿院にて出羽座芝居にもみけし人形が行われる。
浄瑠璃、三味線などとても上手である。

若宮の子ども芝居は演目が替り、ますます評判を呼ぶ。

この頃、公儀より諸国へ寺院の地・庄号を吟味するとのことで、城下の寺院にはこの間いろいろと吟味があり、書き出す。
河野庄というばかりで、他にはないと。

12月。
御坊報恩講の間、茶町通りの両側に揚提灯を出すことが当年より始まる。
提灯には門前講中と書いてある。

広小路にて変わった見世物が行われる。
鳳凰の足、八足の鹿、あるいは鬼になりかかった女の干物などで、種々の品が数多くある。
もっとも作り物だと。
四日市あたりの者が作ると。

この冬、町々へ御用金を割り当てる。
間口1間につき2匁ずつ。
ただし、木戸外の町家は棟1ツに2分ずつの定めである。
借家の分は家主が納めるので、家持の輩は皆迷惑する。
これを小間割という。

この冬、米の値段は下値となり、1石2斗5、6升より下がり8、9升と。

(p158~p159)

来ないなら来ないと早く知らせないと、下々の気持ちがわかってない

享和3年(1803年)。
5月。
5月4日より大須の芝居が替り、初日となる。
初めは花の上の誉石碑を最初の段より四段目まで、最後は隅田春妓女容性上中下。
この芝居は演目が替ると評判がよくなく、その上はしかが流行していたのでなおさら人の入りが良くない。

8日夜、伏見町2丁目大工新右衛門夫婦と娘まつの3人を裏町日雇頭矢張忠五郎という者が色恋の恨みから大斧で打ち殺し、町内で騒ぎとなる。
親子3人は即死する。
忠五郎は召し捕られ、獄死する。

この頃、次第に麻疹が流行し、上から下々にいたるまではしかにかかる。
そのうち30歳以上でかかる者はまれである。
昨年の流行でかからなかった者は今度全員がかかる。
もっとも諸国津々浦々まで流行らぬ場所はなし。
いろいろなまじない、よみ歌、見立物などがあるが、略す。

23日、南寺町養林寺にて麻疹の祈祷として放生会(殺生を戒める儀式)が行われる。

6月。
6月、広小路で夜開帳が行われる。
次々と見世物が始まり、賑わう。

15日、片端のだんじりの試楽が行われる。
聖惣院様が通りがかりに見物されるため御土居の上に仮屋を建て、夕暮れ前から簡単な御供とともに埋御門を巾下、そこから伝馬橋裏の安部氏控所で今は御小納戸控の下屋敷へ立ち寄られ、伝馬橋筋を本町通へと賑わいを見物されて片端通を西へ、御園御門を入られて仮屋よりだんじりを見物される、このため贅を尽くした見舞提灯・小車が現れる。
この夜、御園御門内へは通行は禁止され、辻固(警固)がおかれる。

16日、若宮の祭礼車を御館の物見下まで曳かせて見物される。
このため例年より早く車を曳き入れ、格別ゆっくりと何度も音楽を奏で、黒舟車では琴・三味線が許されて踊りなどを催し、中須賀は新しい獅子曲(獅子物)を入れ、その他でも車の品をいろいろと新しくし、物見の下に控えて今か今かと指示を待っていたところ、聖惣院様は風邪で見物が行われず。
そのため、車の係の者は力を落とし、東御殿で精いっぱい美しく飾って見せる。

28日、庄内川は増水で6合となって時々雷雨もあり、雨が降りがちで晴天はわずか。

当月9日より、清寿院にて江戸座芝居の興行が行われる。
もっとも田舎廻りの小芝居で不評である。

7月。
7月、この頃、未申(南西)の方角の空に鐘馗(しょうき、疱瘡除けの神様)のような形の雲が現れる。
もっとも現れたのは夜中のことである。
あるいは戌亥(北西)の方に現れるとも噂する。

盆中、町々では梵天をたくさん出し、御館へ曳いていくようにとの指示もあったが、町は皆不景気で催しもなく、例年より静かである。
万屋町より1輌出すだけなので、御役所より内々に誘うが、皆景気が良くないのでなかなか出し渋る。
江川町・小牧町あたりより1、2輌出し、囃子の屋台など拵えて三味線・小弓を交え、15日に御館へ曳く。
それでも何とか2、3輌だけである。

22日、橘町芝居初日では初めに傾城菜種□(女に集)五段目まで、最後は持丸長者金算劔上中下。
最後は新しい狂言で大坂加嶋屋盗賊に最後伏見町忠五郎を仕組むと。
立は三枡大五郎。
立は中山兵太郎。
敵は嵐熊五郎。
敵は坂国。
悪は松嶋清蔵。
立は姉川新四郎。形(おそらく女形)は豊松あやめ。
同、嵐若松。
同、芳沢円二郎。

23日、聖惣院様は矢田川原にて花火を見物される。
早朝より夜5ツ(午後8時)頃まで、花火の数は50あまり。
木ケ崎長母寺境内で見物される。
夜になると見物が多く集まる。
商人は店を数多く出し、川原の堤は人で埋まる。

25日夜、白壁町善光寺筋角の大村氏長屋が焼失する。

8月。
8月8日より、若宮芝居にて子ども芝居の興行が行われる。
立は嵐音吉。
同、尾上弥太郎。
同、藤川浅吉。
形は中山富士松。
同、市川熊太郎。
その他は略す。
狂言はいろいろ寄せ集めたもの。
とても華やかで評判がよく、流行る。

14日より、府下より東の方の村々で洪水となる。
13日より雨が強く、枇杷島川は水かさが増し、9合ばかりとなるが、西北の村は変わったことはなし。
東より南寄りの村々ではあちこち砂が入り、川名ではため池が決壊して車道あたりへも水が流れ込み、東の村では明和4亥以来の洪水だと。
山津波ではと噂する。

桜之町円通寺の院主は行いが良くないため牢に入る。
末寺の住持にも同様なことがあり、牢に入る。
番が附くことなどある。
24日、橘町の演目が替って大入りとなる。
双蝶々曲輪日記、最後は七重絹浪花雛形。
芳沢円二郎が演じる。

(p156~p158)

今回の見世物はショボくないですか

享和3年(1803年)。
1月。
1月1日、晴天。
去年の冬から暖かく、寒中と言いながら雪はなし。
珍しいことである。
昨年冬の御用金のため年の初めのあいさつ回りも少なく、周りは静かである。

14日より七ツ寺境内にて釣人形の芝居興業が行われる。
元祖藤井長之助という名人が行う。
段取りもよく、人形の動きは操りにも劣らず、出遣いも行われ、殊の外評判も良くて大入りとなり、人が群れ集まる。

大須門前にて呼出し曲馬と称して女大夫が興行を行う。
前芸として子ども踊りの類、本芸は彼女が馬を手で招くとこれに従いやって来る様子はまるで犬や猫のよう。
馬を自由に扱う女大夫は花崎豊菊。

嶋木氏の控え山愛知郡上野山の中には唐津焼の細工師肥前長崎の者がいた。
御抱になり、細工場が出来、焼物竈も一口出来る。
この職人はこれまで摂津国三田にて焼物を作っていたと。

閏1月。
閏1月、広小路神明の社内にて噺・物真似の興行が行われる。
留吉・一八・近松など。
この時から初めて当社内にて三味線を弾くことが許される。

2月。
2月、広小路にて大鮹(タコ)の見世物が行われる。
生きているものではなく、広げると1、2畳の大きさにもなる。

13日、聖惣(聡)院様は柳原御殿に入られ、庭の桜を見物されて歌を詠まれる。
恐れながらここに書き加える。
やなぎはらのはなといへる事を歌の上下の頭におきて
八重ひとへ咲重なれる花盛 ながき春日も忘れてぞ見る。
聞しにも増る色香の庭桜 はる幾返りたち馴て見んらむまん(爛漫)と盛の花を吹からにのき瑞の松も匂ふ春風。
はる毎に斯て盛を重ねなば 名高き花の庭と成なん咲花の色香のみかはさまはざまにうつる詠(ながめ)の庭にめかれぬ。
これは13日に出かける際、気持ちを詠まれた歌。

春日井郡高田寺本尊薬師如来、伝教大師彫刻霊像を開帳する。

部田祐福寺小三尊入仏供養が行われ、23日より3月□日まで開帳する。

春日井郡岩崎寿宝院十一面観音を開帳する。

25日、紀州様が江戸表を下り、宮で宿泊される。
昼頃、当町を通られる。
聖惣院様は熱田御殿で対面され、早朝より本町通を通られる。

広小路へ如何物喰いの女の見世物が行われ、蛇・蛙、その他いろいろな虫の類を喰う。
木曽のあたりよりやって来た女だと。

3月。
3月、世間一般ではしかが大いに流行る。
安永5申年に流行っており、今年で28年目。

11日、大須芝居で中芝居(格式が中程度)が行われる。
初日、傾城狭間櫛を演じる。
立は榊山四郎太郎。
同、嵐松之助。
敵は片岡国右衛門。
敵は坂国。
悪は片岡国五郎。
立は中山文蔵。
女形は中村吉太郎。
同、中村吉蔵。
その他は略す。

4月。
4月8日より大須の芝居は演目が替り、伊賀越乗掛合羽を演じる。

13日より27日まで、住吉町福恩寺にて近(江)州鴨堅田山慈敬寺親鸞聖人の尊像ならびに蓮如上人半身影像など霊宝を弘通し、数品の中でも歯落の布袋というものはとても珍しい物である。

17日、祭礼が巡幸する。
名代は石河殿。
先駈は町御奉行佐次が退役したため稲葉氏1人。
押乗は御先手物頭渡辺兵七郎、石原など。
聖惣院様は評定所北御勝手御勘定所において初めて祭礼を見物され、大手先御構作事中のため、幕がびっしり張ってありとても見事である。
祭礼が終わると桟敷に入られ、本町東の車提灯を灯した中を町内へ戻るのを見物され、暮半(午後7時)頃、戻られる。
掃部頭様(宗睦弟松平勝長)は厩北の長屋で見物する。
惣町代花井七左衛門にはこれまで長刀を持たせていたが、当年より願いにより槍を持たす。
練屋町の比丘尼の練り物は衣装が替る。
大津町の六歌仙の練り物は鹿子狩に替る。

(p154~p156)

聖惣院様ってやたらとお出かけ

享和2年(1802年)。
9月。
9月、この頃、痢病が流行る。
まじないだからと、柿の葉を10枚煎じて飲めば病にならないと。

7日より広井八幡宮境内にて相撲の興行が行われる。
江戸の三段目・四段目(今の三段目や序二段なのでかなり下位の相撲取り)の相撲である。

七ツ寺の後、大須への通り抜けの西側に茶屋ができる。
竹皮屋という。

大須門前にコマ廻しの名人がやって来て賑わう。
藤井市太郎という。

13日、聖惣院様は上田山で茸狩を行われる。
東大手より京町通、末森蝮池のあたりより歩かれて散策される。
茸は5000本ほどあると。

15日、聖惣院様は船で船蔵へ向かわれ、熱田新田あたりから保田のあたりまで遊覧される。
辰の刻(午前7時)、惣河戸より船に乗られ、堀川の船行列は次の如し(略)。
昼時に船蔵で休憩があり、それから新田端を行列で下られ、彩鷁丸は大きな船なので潮が引かぬうちに空で先へ出し、新開堤のあたりに停泊する。
船蔵よりは常盤丸に乗り替えての行列される。
見物の者が多く集まる。
新田端で漁師の業を御覧になる。
蜆とり、穴さぐりなどいろいろな業を御覧になり、魚などがたくさん捕れると。
漁師、若い者は参加できず、40歳あまりの者ばかり。
それぞれ新しい半纏・襦袢を立派に拵え、出向くと。
また御水主組が鯨捕りを真似た様子を御覧になると。
帰りは夜となり、4ツ(午後10時)頃、堀川を行列される。
先舟では采をふり、法螺貝・太鼓と特に賑やかである。
見物の者が数多く、町に人があふれる。

20日より大須の芝居は最後の狂言に花縁弥生服(ハナノエンヤヨイコソデ)上下を演じる。
永楽屋孫太郎の狂言で、評判がいい。

29日、聖惣院様は熱田を社参され、辰ノ刻(午前7時)に出発され、熱田御殿へ入られ、午ノ刻(午前11時)に参詣される。
行列の御供は麻の上下を着用し、御女中方は各下げ髪にてぼうぼう(堂上)眉を描く。
行列には、老女2人、対箱その次に御対箱、五十人衆が両側、羽織での御長刀、御輿、麻上下着用の御日傘、御立笠。
行列は名古屋より熱田まで替ることはなし。
ただし、社参の際には御供は御浜御殿より麻上下を着る。
名古屋より熱田御殿までは羽織・袴を着る。
この日、宮中では鎮皇門の中に中貫(なかぬき)十ノ字の幕を張り、春敲門の外も同様。
社役人はそれぞれ大紋を着る。
神楽所で神楽を奏でる者は浄衣、馬場左京は衣冠を着て海蔵紋の前、西の方へ案内として出向く。
供の者は衣冠を着ず。
宮中では見物を禁止し、社家の出仕もなく、社役人、神楽所の輩に到るまで神楽が終わるとそれぞれ宮中を出て門外におり、見物の雑人は南の門前、大松の側から下へと両側に控えて見物する。
寺社方同心はそれぞれ棒付きで警固し、麻上下の御供は神馬屋のあたり東西に控え、御道具は海蔵門に立てかける。
帰りには馬場左京が御紋付の長持を吊らせ、熱田御殿へ出向く。
これは御供物か神酒の奉納であろうか、神前にて神酒を頂くことはなし。
御殿で頂いたのであろうか。
7ツ(午後4時)過ぎ頃、館へ戻られる。

10月。
10月4日より大須芝居の演目が替って始まる。
二番目狂言は大名中村八百蔵、鞨鼓売藤川八九郎、焙烙売坂東国蔵。
祝寿三番叟は翁沢村幾二郎、三番三叶珉子、三番三中村歌右衛門。
暇乞狂言は芦屋道満大内鑑。
最後は春霞吉野忠信 道行の段。
この初日では女夫三番叟が華やかで、見る者皆が喜ぶ。
米三の葛の葉、兵太郎の安名も評判がよく繁盛する。
この松本米三は風雅を好み、画も相応に嗜むので発句・画讃などを書かせる者も多くある。
ある人が葛の葉に出てくる歌を羽織の裏に書かせた際、恋しくは尋来て見よ篠田なる(本歌は和泉なる)と書き違え、しばらく考えて、森の梢のうらみ葛の葉(本歌は篠田の森の)と書き直すと。
その明(妙)に皆感じ入る。

11日より、清寿院にてチンコ芝居(子どもたちの演じる芝居)が始まる。
立役は藤川虎蔵。
同、市川虎蔵。
敵は市川鶴蔵。
同、浅尾浜九郎。
悪は水木藤蔵。
立役は市川団三郎。
女形は沢村田之助。
同、藤川三とく。
同、市川団之助。
初めは義経三本桜で、最後は増補阿古屋三曲を演じる。

15日、聖惣院様が船で熱田新開のあたりへ出かけられる。
帰りは夜亥ノ刻(午後9時)。
船蔵のあたりより惣河戸まで御水主の者に踊りを所望され、流行歌を謡ってとても賑やかである。
乗られた船は名古屋丸、船を乗り換えるまで太鼓を打ち、とても賑やかと。

16日、天道町清安寺釈迦堂の棟上げ、ならびに入仏供養が行われる。
建中寺方丈が導師を勤める。
13の寺の方丈が法会を行う。
多くの僧が集まり、音楽で法会を執り行う。
付けたし、三十三所観音も同じ時に入仏供養を行う。

松平加賀守殿が江戸より国元へ上られ、20日に本町筋を通る。
ただし、加州侯が東海道を通るのは一代一度限りとのことで、珍しいこと。

22日夜7ツ(午前4時)頃、近年まれな大地震がある。
およそ50年あまり覚がないような地震だと老人が話している。
本町御門西の御土居・石垣は崩れ、松は倒れ、高塀は残らず堀へ落ち入り、町役所の北より三之丸が見えるようになり、あたりの揺れは激しい。
その他、城内を始め町々の土塀ならびに座敷などの壁は壊れ、中には天井の落ちたところもあり、今まで聞いたこともないようなことである。

大乗院で相撲の興行が行われる。
西は時勝、大浜、鶴渡り、東は16歳の虎ケ嶽、桜嶋、岩ケ浜など。
虎ケ嶽は土俵入りだけに現れる。

28日、公儀より分見(測量)御役人がやって来て、本町通の間数などの吟味が行われ、東海道分見の図がこの度改訂されるので国々を分見の役人が廻り、吟味があることが先だって町々へ触れがあったと。
この日の城下吟味の様子は、先に杖を立て、通行を止める。
この時、通行する者は東側の通行を許し、西側は通行を止める。
杖突きが先頭で下に下にと大声で叫び、通りかかった人々は家々へ控える者もあり、用事などで急ぐものは東側を通行する。
分見の様子は、切紙の付いた長い竿2本を前後に1本ずつ持ち、町の真ん中に苧綱(おづな)を細い竹に張りつけて間数を測り、まず仮の杭を打ち、その後他の杭を持って来て初めに打った杭を抜き、先の方へ持って行き、その後後ろの杭を立てて戻る。
各綱を張った竹を持ち上げ、先の方へ順に通って行き、その杭の側では1人がたくさんのためしゃぐま(赤熊、払子)のように見える紙を折って竿につけ、分見衆は磁石を台に据えて慎重に行う。
間竿(けんざお)に1人が付き添い、磁石台より竿までの間数を測って何間と叫ぶ。
磁石を使っていろいろ帳面に記す。
その後、諸役人衆が数多く現れ、町々の町代も現れる。
この時は通りでの立ち止まりや見物が禁止されたので詳しくはわからず。

この頃、天気の良い日は暖かく、冬の気配はなし。
地震が原因かという噂もある。
また沖の方では大きな音がすると。

11月。
11月6日より清寿院の芝居で顔見世座付が行われる前に、市川流がしばらく芝居を行い、団三郎が勤める。
当地では珍しいことで見物が多く集まる。
顔見世狂言は義経千間幟。
本狂言は三拾石艠始。
13日より最後は相生七段獅。
団三郎が勤める。
顔見世手打(贔屓筋が行う歓迎儀式)は役者・手代、楽屋の者が勤める。

11月、寿光院様忌中の旨触れが廻る。
先月29日に亡くなられたので、今月19日までは聖惣院様の喪に服する。
寿光院様は紀州様の姫君で加賀侯の母君である。
物静か、穏便というよりは軽いもので、鳴物・稽古などもその家業の者は許され、普請なども許される。

20日夜8ツ(午前2時)頃、江川端西側の戸田道石橋の下より出火し、町家表裏筋がかなり焼失する。

この冬、町々へ御用金(臨時の借上金)を言いつけられ、見立てで家持ちは残らず、借家でも役付きには御用金が課す。
ただし、人を選んで言いつけるが、見立て違いもあって迷惑する輩も多くある。
いずれにしても町中大迷惑で、免除の願いを出して騒ぎ立てる。
朱書「これは熱田前を新たに切り開く御切手(手形)にあてるためで、これを十両切手という。」

この頃に町々に張り出された落書。
濁世至来 貪愛瞔繁盛 有縁衆生 一聞 名号則生安楽。
これは落書と見えないとの話もある。
この文字の下に細かな字が数行あり、番を附けて文章の意味を解読するが、これを写しにやって来た者が書き落したと。
実は恐ろしいことでも書いてあり、除いたのだろうか。
この作者は、御役者(ママ、役所)より吟味・御尋があると噂する。

12月。
12月1日、東懸所にて佐々木宗六門弟の大文字の会が行われる。

6日より清寿院の芝居は最後に戻駕郭大全を演じる。

この度2朱以下の米切手、1匁・3匁・5匁が発行される。
これを小切手、または銀札という。

(p148~p152)