名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

不意に人参の値段

宝永6年3月29日。
この日から穏便が終わる。
ただし鉄砲は撃たないようにとの廻文がある。

近頃、人参の値段上下がる。

木綿の値段が上がり、下々が迷惑していると聞き及び、詮議したところ、帆に大分使われているので今後一切新規にもめん帆は禁止する。
ただし前々からあった木綿は使ってよいと云々。
新規には前々の通り蒲のむしろを帆に仕立てるようにと仰せ出されたという話もあった。

火の不始末か

宝永6年3月28日。
文左衛門は円水で酒を頂き、源左衛門でまた酒を頂き、丹左で吸物・酒・茶づけなどを頂く。
申半(午後4時)頃、火事とのことで戻り、手代屋敷へ行く。
清左衛門南の藪垣を隔てたところまでで、燃え始めには火の子がたくさん飛んできたと。
夕暮れ前には静まる。
和田十蔵の足軽屋敷は16軒のうち13軒が焼失する。
5、6日前にいずれの作事も終わっており、屋根を全部葺いていた。
古い萱から火が出たと。

山城守の世話に民部さんはなったから

宝永6年3月27日。
竹腰民部の元の同心は全員明組となる。
その他の明組もほかの組の指し人(差人)となる。
左に記す。
(略)。
このためまず小普請になり、組の知行と屋敷は召し上げられる。
屋敷は屋敷奉行が受け取る。

そりゃ仕方がない

宝永6年3月26日。
この日で文左衛門の蔵の大工工事が終わる。
都合35日かかる。

西鉄門土橋の石垣が普請のため東鉄門を通る。

一体何のために

宝永6年3月24日。
6人がやって来て文左衛門の蔵の壁を塗る。
地酒を1升を祝儀として出す。

この日鈴木伝太が言うには、山本九郎左衛の屋敷を激しく荒らすと云々。
壊した後の部屋を見て屋敷奉行が問い詰めると、物置部屋であまりに見苦しいので壊したと云々。
仮山の石木などを残らず掘り倒し、近所へ預けていた。

蔵の工事はどんどん進んでます

宝永6年3月23日。
昨日から今日の未(午後1時)までで文左衛門の蔵の屋根・土居・葺きが終わり、それから檜槫7丁を削る。
7丁の代金は2分115文、ほかに駄賃が83文。