名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

この牧野の清水は有名で、他にもいろいろ書かれています

文化15年(1818年)。
5月。
5月1日、日置村からの馬の頭(塔)にはしらかし馬(走り馬?)を出す。
これは今年熱田へ本馬を出すため。
ここから熱田へ馬の頭を献ずるのは40余年前の安永7戌年に出して以来と。
久々のことなので評判を呼ぶ。

同日から清寿院の芝居の切狂言が替る。
終わりに置土産薩摩名物 上下を上演する。
これは暇乞の公演。

4日、日置馬の頭は場ならし(リハーサル)を行い、多くの見物が集まる。

この村の馬の頭には雲雀籠のだし(標具)があった。
これは熱田大瀬古町のだしを昔喧嘩して持ち帰ったものだと。
先年馬の頭を出した際は何事もなかったが、当年は府下町々でこのだしのことをいろいろと噂しており評判を呼ぶ。
その原因は、日置の住人骨接医師浅井氏が思い違いなのか、出入りの肴屋に昔の話をして、今年はその方が取り返すのが当然などと持ち上げた。
このことが村中にもれ、1日のはしり馬にかこつけて浅井氏のところへ乱入して恨みを晴らそうと企てる。
しかし、長老たちがなだめてこれを止める。
この噂が追々世間に広まったのでいろいろと噂する。
日置の村内では全員が参加するので人数も多く、このため老人たちが寄り合って内々に話し合った結果、雲雀籠のだしがあるのであれこれ飾りたてるのはよくない、この度は神前へ奉納すると決めて馬宿に飾り置く。
場ならしにも用いず。

5日、熱田馬の頭に牛立村から本馬を献ずる。
また熱田の中では掛町・新屋敷・旗屋町などそれぞれ本馬を出す。
その他俄馬も多く、近年にはない大賑わい。
旗屋町競子(警固)の装束は華麗である。
また、評判の高い日置村馬の塔は早朝に七面横町から揃って出かけ、前の警固が二の鳥居を越えても、後ろの馬に附いた者は橘町あたりを過ぎずと、おおよそ18、9町(1町は約100メートル)余りも続く。
馬の数は4匹だが、人数は3000人余りにもなる。
40年前よりはかなり多いと。
また、この村の本馬には先例の通り突棒、指股(刺股)、熊手などを持たせる。
馬の左右には浪人者7、8人が付き添う。
ただし、浪人衆がいない時は心得のある者が浪人風の出で立ちで付き添うと。
喧嘩などの用心のためか。
この馬の頭のことは役所でも心配しており、早々に引き取るように言いつけられたので、熱田の町々は廻らずに神前から直ちに引き返し、高倉社のあたりで休憩し、昼頃には日置に戻り、銘々組々に分かれて夕暮れ時まで村中を歩き回り、夜中までも大賑わい。
前に記した雲雀籠のだしは風呂敷に包み、釣台(吊台)に乗せて早朝に奉納すると。
これも役所から内々に言いつけられたのでこうなると。
この馬の頭は華麗なことはなく、50人ずつが浴衣を揃えただけ。
ただ、大勢であるだけ。
行列は先年と同じなので詳しくは記さず。

6日、日置村は礼馬として棒の手を遣わし、あるいは趣向を凝らして俄などで夜中まで賑わう。

7日、熱田正御殿の手斧始が行われ、巳ノ刻(午前9時)に式が行われる。

10日、橘町の芝居が替り、大入りの初日。
初めに太平記忠臣講釈 十幕、前狂言は普通の出来。
終わりに隅田春妓女容性 三冊、切狂言は面白く、坂十・鰕十郎・大友、全員よい出来だが、特段大当たりはせず。

年号が文政と改元される。
11日に触が廻る。
昨年即位があったので改まる。

近頃、町々の俄馬が多く、延米会所からも6日・8日に昼過ぎから出して賑わう。
大人・子どもでおよそ130人余り。
その他夜分には町々から揃いの華麗な襦袢などで出したところ、昨11日夜、伝馬町あたりで医師の下男と争いとなり騒ぎとなると、また、車ノ町、巾下あたりでもいざこざがあったので17日、18日以外に出すことを禁止するの触が出たので静かになる。

15日、富沢町の馬士(馬方、馬子)連中の馬の頭はこの日熱田宮へ献ず。

18日、富沢町と巾下大伝馬町から本馬を出す。
両町とも馬士連中。
ただし、富沢は馬4匹、大伝馬1匹。
29年ぶりに今年出す。
この馬には先例の通り厩から馬具などを拝借する。
このため馬宿の飾りは厳か。
また、警固などに華麗な行列はなく、各紺看板(紺木綿の法被)を着ての勇々な出で立ちで、他のものに風流さはなく駈馬だけ。
その他は一向に出ず、正方寺町から黒舟の形を拵えて車で引き、子ども踊りが行われただけで評判ほど馬は出ず。
延米場では京都練り物を真似して年中行事の趣向とするが、あまりに大きなものであったので支配人から差し止められたのは残念なことである。

大須の法印から毎年1、5、9月の18日は戌の刻(午後8時)まで門を開け、夜中参詣の願いを出していたところ、願いの通り許されてこの日から夜中参詣が始まる。

24日、牧野通り筋の修行者が手斧を持って庭に井を掘る。
深さ2尺(1尺は約30センチ)ほどで清水が湧き出る。
この修行者は先年矢田村老女に弘法大師の影像を送り、様々な霊験があった法師である。
四国を巡り、近頃当地にやって来て住み始める。
もともとこの村は水が悪く、どこもそぶ水(赤茶けた水)であったので各水を漉して用いている。
この法師はこの悪水を本尊の大師に供えることを嫌って本尊に祈願し、茶の湯に用いることができるような清水を与えてほしいと願って掘ると、澄んだ冷水を得ると。
その夜から3日ほど珍しいことであったので見物の人、あるいはこれを信じる者が参ったので特に夜分は大賑わいとなる。
あまりの賑わいのため、夜分の参詣は断って禁止する。
誠に不思議なことである。

28日・29日、清湛院様1回忌の法事が行われる。
建中寺で執り行われる。
この日、下のあたりの芝居・見世物は休む。

(p367~p370)

焼き物なんてやってられねえぜ

文化15年(1818年)。
3月。
1日、清寿院の芝居が替り、大入りの初日。
けいせい稚児渕 続七冊を上演し、評判がよい。

6日、町奉行田宮半兵衛殿は御用人を仰せつけられたため加増地100石を下され、町奉行もこれまで通り勤めるよう仰せつけられたので足高200石を下される。
以上本知200石、足高600石の都合800石。

8日、成瀬隼人正殿が江戸へ出発し、東海道を向かわれる。

8日から14日まで八事山開山天瑞律師100回忌の法会が行われ、開山堂で誦経(経の暗唱)・讃(仏を讃える声明)などが行われる。
終わって石牌前で読経、一山の衆僧が集まる。
ただしこの開山堂は去年再建されてほうぎょう(宝形)造りとなり、以前は小さな座敷のようであった。
この法会のために開山塔の前に拝礼場所の仮殿を拵え、開山堂前からここまで仏幟・唐幟を立て、法会は厳かで参詣の者が多く集まる。

10日、紀州様が午の刻(午前11時)に江戸へ下るため通られる。
美濃路を通り、夜前に起に泊まられる。
この夜は鳴海に泊まられる。
御供は由比楠左衛門、曽根孫大夫。
押は山中作左衛門殿。
その他は略す。
近年倹約のため、供の人数は少ない。

同日から23日まで日比津村番神宮で法楽遷宮を行い、開扉する。

11日、紀州御女中が通る。

13日、殿が出発され、木曽路を江戸へ下る。
西鉄門から出て、東大手から志水口へ通られる。
大御番組から小普請、御医師まで玉置氏の構えへ出かけ、御目見衆石河(いしご)侯前へ出向く、当月2日出発されるはずだったが、木曽が雪深かったためこの日になる。
ただし夜前から雨天になる。
御供は御年寄渡辺兵庫頭殿、御用人衆山澄将監殿、鑑嶋七郎右衛門殿、五味平馬殿。
御先騎は成田新五左衛門、兼松源兵衛、横井十郎左衛門。
その他の供は略す。
この度は大家衆の供が多いので殊の外行列は見事である。
雨天で残念。

15日、豊場釈迦如来を当月上旬から開帳する。
この日から壬生狂言が始まり、賑わう。

16日未の刻(午後1時)、かなり大きな地震がある。
これ以前、時々雨天で寒暖が不規則に繰り返されていたが、この時から晴天が続き、暖かくなる。

今年から大御番組、寄合組は2度御役米代50石分が免除される。
惣高何100石であってもこの割合。

葉栗郡光明寺薬師如来を開帳する。
霊宝数品が出る。

20日から、伝馬橋の修復作事が始まる。
四隅の柱は石になる。

23日、橘町裏大芝居の作事が終わり、棟上げの式が行われて賑わう。
木戸口には贔屓の者たちから贈り物が山となり、風流の印を立て、酒樽・蒸籠・米俵などが数多くあり木戸口では足りず町並みにも飾るが、崇覚寺の構えまで隙間なく飾られる。
この芝居(小屋)の造りは三ケ津(江戸・大坂・京)のように両桟敷にし、西側は水茶屋となる。
特に華麗である。

同日、広小路辻能は宗右衛門の暇乞で道成寺を上演し、大入り。

同日、八事山で石の塔の供養が行われる。
現住ならびに衆僧が数多く、西山本堂で法会が行われる。
これは熱田から建立された五輪塔である。

同日から4月7日まで桜之町興善寺で城州深草小御堂西岸寺の高祖聖人三十六歳草鞋尊像、親鸞聖人旅の木像、玉日君尊像ならびに宝物を弘通する。

同向かいの教授寺で善導大師筆の阿弥陀仏を拝ませる。

同隣の清水寺飛薬師如来を開帳する。

この頃は天気もよく、開帳は賑わう。
八事山は毎日参詣の者が多く集まり、見物人も多く、三味線・胡弓・太鼓・笛、鼓などの鳴物で天道山のあたりまで大賑わい。
通りでも打ち囃子、馬の塔か梵天のようであり、夜になると、帰りは府下の町々まで打ち囃子で賑わう。
24日は特に大賑わいで、御膳籠を持った者だけでも480組あると。
その他は察すべき。

高岳院筋下忠重寺では門を南に開き、改築する。

八百屋町観龍院で子安観音を開帳する。

25日から清寿院で切狂言が行われる。
いろは新助鐘鳴今朝噂を上演する。

4月。
日置橋の修復が行われる。

4日昼少し前、伝馬町通長者町西へ入る、軒目北側菜種屋の富田屋で火事がある。
これはゑんしょう(塩硝)の中へ火を落としたので弾けてしまい、怪我をする者があり、1人はかなりの大怪我、もう1人の小僧は顔を火傷すると、近所の屋根に日雇が大勢居合わせたのですぐに駆けつけ、屋根をめくって上から水を掛けたので火は外へ飛び散らずに消えると。

5日から清寿院の芝居が替り、大入りの初日。
初めに彦山権現誓取釼、終わりに鐘鳴今朝噂を上演する。

去る12月23日から九州天草あたりの名僧で70歳になる豪潮律師が万松寺に滞在しており、藩から祈祷を仰せつけられ、この春には皆の結縁(けちえん)のために法を説き、諸病平癒の加持なども行う。
毎月8日・18日・28日に加持を行って多くの人が集まり、特に近頃は大賑わい。

この頃、前津すやきの藤が花盛りとなって見物が多く集まる。
また、去年から素焼き師は焼き物をやめて茶屋・貸し座敷を開き、西南の庭に藤棚を広く掛け、築山も出来上がり、座敷も拵えて見物の場所とする。

11日、町方調役青山助八郎が与力を仰せつけられる。

同日から橘町の新芝居は大入りの初日。
名代は伊勢屋富三郎、座本は菊屋半七。
雪月花寿式三、棚自来也談 合本十冊を上演する。
立役は坂東重太郎。
同、藤松山十郎。
同、市川市鶴。
同、嵐嶋三郎。
敵は坂東国五郎。
敵は片岡小六郎。
悪は大谷友右衛門。
立役は市川鰕十郎。
女形は市川門之助。
同、三升亀三郎。
同、嵐璃光。
女形は藤川花友。
その他小詰が大勢おり、略す。
最後に倭仮名在原景(系)図 蘭平物狂の段を上演する。
この狂言はいずれも評判がよく、繁盛する。
特に軍八役の大友、長兵衛役の鰕十郎、雅次郎役の坂十、みどり役の花友は見事。

14日、車引始が行われる。
9ツ半(午後1時)頃、地震がある。

15日から、清寿院のチンコが替り、狂言を行う。
初めに慣自来也談、終わりに祇園女御都錦絵を上演する。
このチンコ芝居の自来也も面白いと評判になる。

16日、東照宮舞楽が終わり、昼過ぎから曇天、時々小雨、試楽の囃子は静か。
夜9ツ(午前0時)頃から雨天で祭礼は延期される。
17日7ツ(午前4時)頃から雨が止むが、曇天のため18日も延期し、19日に巡行する。
朝は日和がよかったが、4ツ(午前10時)頃から小雨が降り出し、昼頃少々の雷雨となる。
昼過ぎに止むが、戻りの車を引き出す頃の未刻(午後1時)から雷鳴が激しくなり、かなりの大雨となる。
そのため早く出発して帰りを急ぎ、7ツ(午後4時)過ぎに車、練り物などが御園門を出る頃にようやく快晴となる。
当日の雷鳴は稀なこと。
見物人に雨具を用意していない者も多く、桟敷に入って混乱する。
御宮名代は瀧川豊後守殿。
御先駈は田宮半兵衛1人、当年は田宮氏転役のため。
先槍は若党3人。
後に対箱、同心2人。
供押1人。合羽籠3荷。
格式が改められ人数が増える。
押乗は御先手物頭都筑半左衛門、山崎又三郎。
本町の天幕が替る。

18日、三州金谷庚申ならびに霊宝を熱田市場町蔵福寺で開帳するため、この日伝馬町通を本町筋へ通り行く。
本尊の前で洞貝を吹き、輪袈裟をかけた僧が2人。
これは珍しい行列。
19日から開帳が始まる。
また、蔵福寺霊宝子安薬師も開帳する。

近頃世間で流行病があるからとそれを除く咒(まじない)だと、いかでかはみも(ママ)川のながれくむ 人にたよらむゑきれいの神。
この歌を門戸に張る家が多くある。
また。風邪が大いに流行り、25日頃から町々では風の神を送る(風の神送り)ところが多くある。

25日に出た触れの写し。
この度世間で流通するように2分判金を新たに鋳造することを仰せつけられたので、この歩判2つで金1両とし、銀・銭との両替は小判・1歩判と同様の割合と理解し、滞りなく流通させるよう。
このこと、国々へ触れて知らせるよう。
4月。
公儀から出された別紙の書付1通を渡すので書面の通りと心得るよう。
4月25日、奉行より出る。

25日から橘町の大芝居は切狂言の蘭平物狂ひを抜き、鐘もろともに夢鮫鞘 恨刀二腰を上演する。

27日から清寿院で10日間辻能の興行が行われる。

同夜、熱田大宮の仮遷宮が行われる。
この一両は日雨天だったが、夜前から快晴で大賑わい。
ただし、一の鳥居あたりから尾頭町高倉宮の側までしめ(注連)を引き、斎竹を立て、提灯を出す。
旗屋町から熱田の町々は両側に揚張を出す。

(p363~p367)

ここから書き手が変わるのかなあ、今まで役替えなどは一度も登場しなかったのに

文化15年(1818年)。
1月。
元日から晴天が続き、春の暖かさで暮らしやすい年頭である。

3日夜、御囃子組の謡初めが行われる。
小謡 四海浪。
老松 シテは金三郎、鼓・笛などは六之助、四郎兵衛、猪左衛門、儀三郎。
東北 シテは彦三郎、鼓・笛などは孫三郎、喜兵衛、六郎兵衛。
高砂 シテは又吉、鼓・笛は六之助、藤三郎、彦次郎、清九郎。
弓矢立合 三人、鼓・笛などは孫三郎、喜兵衛、加兵衛。
以上。

また10日頃から厳しい寒さが戻るが雨も雪も降らず、晴天が続いて寒いながらしのぎやすい。

去る12月、仁孝天皇へ輿入れのための江戸表から祝儀の御使として従四位少将井伊掃部頭直亮が上京する。
昨12日、鳴海に泊まり、13日朝、城下を通る。
ただし、供応はなかったが、名代であるので朝7ツ時(午前4時)から道筋両側に提灯を出し、道奉行衆が出向くので町々の町代・組頭などが辻の警固に出向く。
羽織・袴で。
この祝儀への尾州からの御使は寄合山村主計。

14日から大須門前で噺(落語)の興行が行われる。
飴屋町に住む鬼鳥。

同日から広小路薬師の西で噺が始まる。
一世一代天口斎。

16日から大須で軽業の興行が行われる。
太夫は品川辰蔵。

20日、五百羅漢大龍寺に時の鐘が許され、この日鐘楼堂の手斧始めが行われ、朝4ツ時(午前10時)から大般若教転読が行われる。
午の刻(午前11時)、儀式が行われる。
参詣の者が多く集まる。
ただし、時の鐘は昨年冬から始まる。
これは山口あたりの勤役衆から時の鐘がないため役所へ遅刻して不都合であると申し立てたため許されると。

同日から26日まで萱津村妙正寺で日朗上人500回遠忌の法会が行われ、児音楽・説法が行われる。
この法会は17日ずつ本国寺末山で執り行われる。
妙正寺の法会が終わり、27日から同所実誠寺で行われる。
大体法会式は同じ。
この法会が本国寺末山だけで行われるのは朗師を最初の祖師とするためである。

橘町裏の芝居小屋が大破してしまい、再興のためこの芝居小屋を町内へ持ってきたいと表町から願い出され、去る7月28日にこの願いが済み、昨年冬から作事に取り掛かり、早春からは特に普請を差し急いだのでこの時に表側だけが建つ。
ただし、これまでの借家を北に引いて東西の借家とし、芝居小屋の北に1本小路を設けるつもりである。
また、西側は建て直して水茶屋のするつもりだと。

23日、城の奥舞台で御慰(主君歓待)の能ならびに囃子が行われる。
御番組(演目)。
松ノ尾 シテは大野彦三郎、鼓・笛などは大倉六之助、福井藤三郎、速水猪左衛門、平岩義三郎。
二人袴 山脇和泉。
縄ない 同治兵衛。
能 芭蕉 シテは安田金三郎、ワキは宮城甚兵衛、鼓・笛は石井孫三郎、梶川喜兵衛、平岩加兵衛。
間 山脇亀三郎。
花子 早川芳八。
三人片輪 同銑四郎 代り悦蔵。
邯鄲 盤瀾(盤渉楽) シテは丹羽又吉、鼓・笛などは青山正七、真六、川原彦次郎、藤田清九郎。
御中入。
〇高野物狂 シテは彦三郎、鼓・笛などは六之助、喜兵衛、加兵衛。
〇入間川 又三郎。
三輪 シテは金三郎、鼓・笛などは孫三郎、四郎兵衛、猪左衛門、藤田六郎兵衛。
狸腹鼓 和泉 釣人又三郎。
腰祈 芳八 代り悦蔵。
〇空蝉 シテは彦三郎、鼓・笛などは孫三郎、丹羽宗右衛門、義三郎。
〇吃り 又三郎。
瓢の神 亀三郎。
能 当摩 シテは又吉、ワキは中川彦三郎、鼓・笛などは六之助、四郎兵衛、猪左衛門、六郎兵衛。
間 銑四郎。
〇石神 次兵衛。
祝言 夢八幡 シテは時太郎、鼓・笛は正七、宗右衛門、彦次郎、清九郎。
以上。
この囃子は4ツ時(午前10時)に始まり、日が短いので〇印は三分(三段)を抜き、夜5ツ(午後8時)頃終わる。
この日拝見に上がった家中の子どもへ殿から紙鳶(凧)を下されると。

23日から清寿院の芝居でチンコ(子供芝居)の興行が行われる。
名代は海老屋佐吉、座本は千代屋七右衛門。
浅草霊験記を上演する。
立役は嵐三津五郎。
同、同三津三。
敵は市川成蔵。
同、藤川伊勢松。
同、大谷辰蔵。
立役は佐の川崎之助。
立役は沢村蝶五郎。
敵は嵐亀蔵。
悪は大谷万作。
立役は市川重太郎。
女形は嵐三蔵。
同、市川千菊。
女形は嵐雛子。
女形は嵐宗三郎。
この他、小詰が大勢。
この狂言は評判がよく、繁盛する。

24日、濃州笠松で火事がある。
朝6ツ(午前6時)過ぎ頃、本町高嶋屋から出火する。
150、60軒が焼失する。
昼頃鎮火する。
府下からでも4ツ(午前10時)頃から見え、上町あたりは少々騒ぐが、一ノ宮の方の村であったので皆静かになり、夕暮れ頃に様子がわかる。

当11日、役替えが行われたのでそのあらまし。
高須番頭尾崎八右衛門、岐阜奉行を仰せつけられる。
岐阜奉行三輪伝内、高須番頭を仰せつけられる。
岐阜奉行大橋新六郎、加増100石を下される。
この岐阜奉行は2、3年前から2人になる。

晦日(30日)、町方吟味役鈴木多門次・村瀬八郎右衛門両人は吟味役頭取を仰せつけられる。
この役所では初めての役名。
他の役所では前々からあると。

2月。
2月、初午。

万松寺白雪大明神社の再建で仮遷宮が行われる。
夜中、大賑わい。
近頃から参詣道が変わり、以前は鐘楼の側から参詣していたのを山門の前に参詣道を設けて鳥居も建て、社のあたりも山を平地にして樹木を切り払い、奥の院へは切通しの道ができ、よい社地となる。

4日から10日まで桜之町本遠寺で熱田通所朗師遠忌法会・児音楽・説法などが行われる。
通所のため地内は狭く、堂内も手狭なため堂の前に残らずかき出し(臨時の桟敷)、仮屋を拵えて参詣場とする。
法会の式は妙勝寺と細かい違いはあるが同様。
児(稚児)の先に素袍を着た2人に児6人。
後堂から練り出し、児2人、幼い朱袴を着た者は仏幡を持ち、大きい児2人は花手桶に造り花、2人は薪木に梅の造り花をさして仏前に向かい、提婆品(だいばぼん)の偈文(げもん)を訓読する。
終わって退座(退席)する。
当時は10日までで終了する。
同日、施餓鬼、児音楽が行われ、児の行道(練り歩き)は珍しい。
この日は児8人。

5日、淑姫君様清湛院殿の位牌が建中寺内の千代姫君様霊仙院の御霊屋へ一緒に祭られることになり、近頃修復が行われてこの日遷座する。
名代は志水小八郎殿。

6日、熱田を社参される。
御先騎は原十郎兵衛、押は遠山彦左衛門。
御老中御供は瀧川豊後守殿、渡辺兵庫頭殿。

9日、一ノ宮の鳥居が移る。
儀式が行われ、神主、一番と二番の権宮司は長柄の輿に乗る。
その他は馬に乗る。
音楽が行われる。

11日から東寺町法花寺で17日間日朗師の遠忌法会が執り行われる。
当寺では児音楽・僧ともに鬼子母神堂から本堂まで練り歩き華麗である。
先に烏帽子布衣が2人はあいききよう衣(藍生絹で作られた夏の衣)、差抜浅黄色の長袴。
次に楽僧4人は白衣小袈裟。
次に児8人が一列で。
鼓を三方に据え持つ、萌黄の装束、袴は紫。
笛を三方に据え持つ、これも同様。
造り花を持つ2人は紫の装束、紋紗の袴は紫。
せきだい(石台)造花の桜を持つ幼年2人は白装束に袴。
香爐持2人は萌黄装束、袴は紫。
各法席に現れて2列で向かい合い、問答だと、我は天人、この法会に供養を行うと下る、などと言葉に節をつけて唱える。
まるで能を見ているようである。
これは寿量品(じゅりょうほん)の一文で、天人常充満(この世界はさまざまな人で満ち溢れている)という意味である。
舞も行われると言っていたが、舞いは行われず。
捧げものをして拝むのみ。
また、少女が現れて天人の舞曲を行ったが、あまりに派手であったので中止となる。
ただし、児舞が14日から行われる。

14日から広小路神明宮社内で堀井座の辻能の興行が行われる。
太夫は金森惣右衛門、堀井仙助、金右衛門など。

同日から七ツ寺弁天の後ろで子供芝居が始まる。
去年、清寿院で評判だった和市など。

20日夜6ツ半(午後7時)頃、丑寅(北東)の方で音が鳴り、光り物が未申(南西)へ飛んでいく。
音は雷のよう。
大きさは1尺(1尺は約30センチ)5寸(1寸は約3センチ)ほどの丸いもの。
近国でも同様と。

21日から一ノ宮で神輿がお出ましになる。
快晴30日の間、神宝拝礼を許す。

当月2日から春日井郡大気村多宝院薬師を開帳する。

8日から同郡沖村岡の切報還寺薬師を開帳する。

21日、広井内屋敷で松の尾代吉の花相撲(番付などの関係しない本場所以外の相撲)が行われる。
ただし、昨今は2日間の興行で賑わう。

東寺町大法寺で日朗師遠忌が執り行われる。
当寺では5日間。
21日、頓書(写経法会)を執り行う。
御堂照遠寺でも同様に法会が行われる。

今年、熱田仮遷宮のため当月5日に手斧始めが行われる。
儀式には岡部又右衛門が装束浄衣で勤め、神官は馬場氏が勤め、その他は出向かずと。
同8日、神材を8ケ村から奉納する。
材木には榊を飾り、大八車3輌に積んで綱で引き、若者・子どもが様々ないで立ちで趣向を凝らし、馬の塔のように女形のいで立ちなども現れる。
打ち囃子でにぎやかだったが、あまりに大げさできらびやかであったので役所から差し止めとなり、その後は綱を引く者は白の単物などを着るようにとのことであったので、各同じようにそろえて白の単物ばかりとなり派手でなくなる。
22日に宿今道と中瀬町が神材を引いて来るのを見たところ珍しい様子だった。
ただし、市場を御所町へ曲がり、大薬師前を西に廻り、鎮皇門から引いて宮の中に入る。

児玉観音寺へ織物涅槃像の奉納がある。
勢州からと、
当月15日から17日間拝ませる。
大きなもので唐土(もろこし、中国)から伝来したと。

22日、町奉行藤田市蔵が役替え、御書院番頭格小普請頭を仰せつけられる。

25日、殿が本町筋の植木を出かけてご覧になる。
ただし、雨天のため天神は静か。

当23日、矢田川原で勢揃えが行われる。
大御番頭は石河杢左衛門、与頭は賀嶋新兵衛、石川小兵衛。

27日から4月16日まで八事山観世音を開帳し、宝物を弘通する。
女人の参詣を許す。

29日、矢場清浄寺で鎮西上人忌を執り行う。
ただし、遠忌ではなく、春から始まる。
毎年一ツ書、年番の寺へ集まり勤める。

同、性高院でもこの法会、頓写が執り行われる。

晦日(30日)、町方検断役三輪武右衛門は吟味役を仰せつけられる。

当年、あちこちの村での開帳では芝居を禁止される。
これは美濃で役人に手向かった者があり、切り殺される争いがあったためと。

(p358~p363)

この葛飾北斎の巨大な達磨絵はとっても有名

文化14年(1817年)。
9月。
9月2日、桑名町福泉寺三十三観音が出来あがり、入仏供養が行われる。

5日から大光院で天台宗叡山の普門律師が仏国歴象編の講釈を行う。
諸宗の寺院から各集まり、これを聴聞する。
この書は先だって発行されたもので五畿内を始め諸国の寺院・大地(?)で講釈が行われる。
この度は当地での弘通のため。
この書はこの律師自作の書で、仏道の暦学である。
参詣の者が多く集まる。
須弥山の図の講釈も弟子の僧を家に招いて聞く。
この図も板行して求めに応じる。

8日、巾下戸田町信濃屋横町下る東側の空家で火が燃え出て屋根を抜き、騒ぎとなる。昼過ぎ頃のためすぐに消す。

13日、亮諦院様(松平勝長)7回忌、相応寺で法事を執り行う。

普門律師の大光院での講談が終わり、また、性高院で講釈を行って人が多く集まる。
桜誓願寺ではこの律師の一番弟子の僧が講談を行い、参詣が多くある。

この頃、大須大塔二重目の組み上げが行われ、裏山に仮屋を作り、その中に組み立てて見せる。

性高院塔中一行院へ中條氏から兆典司の筆による不動尊の像を奉納する。
今月28日から初めて祭を執り行う。

29日昼頃、三之丸の元は高橋司書殿が住んでいた大道寺氏の大松が西風で折れる。
小笠原氏土蔵が崩れる。

10月。
10月1日未の刻(午後1時)過ぎ、巾下大伝馬町南側裏家が焼失する。

5日、西御坊で京都画工葛飾北斎という者が、達磨の大きな絵を即画(席画)する。
珍しいことなので見物の者が多く集まる。
場所は御堂の東北、茶所の前の広庭で、巳の上刻(午前9時半)から描き始め、夕方に終える。
この紙の大きさは畳120敷の寸法で、竪(縦)10間(1間は約1、8メートル)、巾6間の厚紙を継ぎ、筆は藁を束ね、あるいは棕櫚ほうきを用いる。
ただし、北斎は先月から府下に滞在しており、この図ならびに大きさ寸法を板行にして書林の店へ出して12文で売る。
このため見物が多くある。
翌6日、年号月日、画名も記し、茶所の前に高く張り上げて1日中見せる。

7日、門前町極楽寺で菊の花会を催す。
尾州・濃州・江州・勢州で育てた菊を集める。
見物が多くある。
その中の雲の上という紅の細く寄りかかる中菊を最上とする。
この時、下あたりの芝居は見世物もなくいたって寂しい。

大乗院で相撲の興行が行われる。

この時、北西の空で音楽の音が聞こえる。
夜半頃のことだと。
広小路あたり、あるいは西北の田などへ聞きに行く人も多いと。
これは天帝が音楽を楽しんでおられ、豊年の前触れだと。
80年前にもあったことと噂する。

11日から若宮で操り芝居の興行が行われる。
箱根霊駅(験)躄仇討、終わりに安達原を上演する。
太夫・人形ともに皆府下の者ばかり。

23日から清寿院で女太夫の物真似が始まる。

二の宮で富(くじ)が行われる。
万事これまでの通り。

11月。
11月1日、東懸所柱建の儀式が行われる。
ただし、先月中頃から柱4本が立っており、本尊のしゅみだん(須弥壇)、がうもんばしら(来迎柱)2本、矢来柱2本が立ち、上の枡組ともに出来上がり、この日はその祝儀。
この儀式は辰の刻(午前7時)のはずが4ツ(午前10時)過ぎ頃に始まり、昼過ぎ頃に終わる。
参詣の者が多くあり、怪我人が出ることを恐れて矢来門・南大門とも戸を閉ざして入れず、穴門と北の裏門だけが開いて参詣の通路としたが、なおさら押し合いとなり老人、子どもは危ないほど。
太鼓堂の仮屋では御くもつ被下所と板札を出し、餅を振る舞うところにはあまりに人が集まったのでしばらく中止する。
また、玄関先の門の前に西向きに仮の木戸門を拵え、参詣の人をこの入口に集め、人を数えて餅の場へ少しずつ通す。
この餅の数は94900と。
2日・3日の両日は懸所柱建の飾りを拝ませる。
その後拝見の輩で大いに賑わう。
また、3日の夕方にはこの飾り物を大工平左衛門へ送るにあたって、酒樽・へいじ(平次、とっくり)・鏡餅を積み、三つ扇を前と後ろに立て、大八車を2輌絡み合わせて2本の綱で引く。
日雇方は同じ出で立ちで、木遣り歌で騒ぎ行く。
後からさまざまな飾り物を3釣りを釣台に乗せ、これも同じ法被を着て日用方が釣る。
本町通りは見物人が多くある。

3日から西御坊で御門跡から使僧が下向し、法談が行われて参詣の者が多くある。

5日夜、風が強く、少々雨が降り、雷が1つ遠くで聞こえる。
海東郡戸田村で火事がある。

同日、二の宮で富突が行われる。
1回目の抽選で楽田村へくじが当たると。

11日夜、東懸所の新しい堂の柱を巻いて包んであった木綿を盗んだ者がある。
番人もおり、夜中の見廻りも厳しく、月夜であるにもかかわらず誰が盗んだのか、北の裏門に犬がくぐれるほどの穴があるだけで、不思議なことである。

25日、笠寺仁王門の柱建は午の刻(午前11時)のはずが、未の下刻(午後2時半)頃に一山衆僧の読経が行われる。
大工などの儀式はなし。
投餅が多く、賑わう。
この時、西の門の建立も半ば出来上がる。

26日、性高院寺中一行院不動堂の斧始めが行われる。
遷仏供養が行われる。

12月。
12月、コメの値段が安く、雪が時々降る。

(p350~p353)

やたらと偉い方が亡くなられた数か月

文化14年(1817年)。
5月。
5月5日、熱田の馬の塔は御器所村から献上する。
町々からも俄馬が多く、近年にない賑わい。

同日、惣見寺で大般若真読が行われる。

10日から大須で宝塔の地築が始める。
この日は門前町講中から地築にやって来る。
また、茶屋からは蒸籠・樽などを数多く飾って賑わう。
本尊の前北の方に掛銭を飾る。
また、大日堂の北に仮屋を建ててここにも掛銭を飾る。
この日、馬の塔もやって来て本堂を廻る。
ただし、18日の場ならしのため。
この地形築では特別に儀式は行われず。
土台の穴北の方に床を出し、毛氈を敷いて樽2つを真ん中に、神酒を三方に据えて扇を東西に3本立て、飾ってあるだけ。

去る8日、公方様実母一橋夫人が死去につき普請は14日まで、鳴物は21日まで禁止する旨、公儀の触れが5月12日に廻る。
馬の塔は物静かが明けても出さないよう町・村ともに触れがある。

道中筋往来の百姓・町人などが家中の者に紛れ、宿(宿場)において人馬などを指し出す者もあると聞いている、けしからぬことであるので今後心得違いのないようにするように。
これは公儀から出た触れで13日に廻る。

23日夜9ツ(午前0時)時、成瀬隼人正殿が急に江戸表へ下向する。
道中は7日間。
この頃、御側大寄合衆ならびに御用人衆では江戸表へ下った者が多くある。
もっともいずれも急いでのことであった。
これは江戸表の御姫様が重態になったための下向だと。
その他御七里(七里飛脚)ならびに時なし御状箱(期限のない御状箱)などの往来もあり、騒がしい。

6月。
6月3日、触れが出る。
去る29日、淑姫君様(ひでぎみ、将軍家斉の娘、藩主斉朝の夫人)逝去につき、普請は6日まで、鳴物は同19日まで禁止する。

4日、1000石以上の寄合、これ以下物頭以上の輩はこの日4ツ(午前10時)に登城し、御機嫌を伺うように。
これ以下の輩は5日に同様。

この禁止期間中、3日間は猟師の猟を禁止する。
広小路あたりに店を構える商人も3日間、灯し物を禁止すると。
惣見寺の読物(拝読)は行われる。
ただし、参詣無用(参拝を断る)と門に張札が出る。
中門は閉めてある。
内々には参詣も行われると。
その他の寺々では法談の類は中止する。

今月は雨が少なく、笠寺あたりでは雨乞いが行われる。
府下はそれほどの日照りでもなく、上郡(尾張北部の諸郡)あたりは時々雨が降り、12日・13日頃には雷雨もある。

この頃、藤の花が咲くと。
前津すやき(加藤豊八の始めた素焼)の藤はかなり花が咲き、若葉の先に花が少しずつ開く。
その他あちこちで藤の花が咲くと、珍しいことである。

三之丸天王祭、若宮祭ともに8月に延期される。
禁止期間が終わり、裏町下納屋あたり、その他あちこちで天王祭が行われる。
提灯ばかりで、作り物、あるいは車など曳くことはできず静かである。
ただし、名古屋村天王祭は1日に終え、中通りも大体終えた後であった。

広小路での夜の見世物にへび遣いの男女名人がやって来て様々な技を見せる。
綱渡り、一本竹、あるいはへび・まむしを口の中に入れて噴き出すなど、様々な技を自在に行う。

21日から同西の小屋で三味線の曲引を見せる。
曲引の太夫は6歳のめくら。
三味線を前に据え置いて撥を両手に持ち、琴を弾くように弾いて歌う。
実に面白い。

この頃、遠州秋葉山前立の宮殿(くうでん)が当地橘町あたりに出来上がり、七面横町仏壇師の家で拝ませる。

二条様御息女青山善光寺附弟智宝が去る20日暁に亡くなられる。
中納言様(斉朝)実母方御叔母が半減の御忌服(忌服期間を半分に短縮すること)を望まれたので、明日まで鳴物を禁止し、普請は許される。
6月13日、触れが出る。

25日、天王崎の試楽が延期され、この夜終える。

清寿院の小芝居、子ども狂言は殊の外大入りで繁盛する。

7月。
7月3日・4日、清湛院様(淑姫君様法号)の御中隠(四十九日)の法事が建中寺で執り行われる。
江戸増上寺へ入られたので、建中寺で当地の法事を行う。
この法事の間は普請、鳴物を禁止する。

広小路で3日の間、乞食あるいは貧しい者に施行が行われる。

あちこちの村々からの雨乞いが甚目寺・龍泉寺で行われて時々雨が降り、雷は少ないが上手く湿る。

15日、惣見寺の結制(修行)が結願(終了)する。
大施餓鬼が執り行われる。
放生会供養、投餅などが行われ、参詣の者が多くある。
法会の始まり、終わりに音楽が行われる。

町々の梵天がかなり出て賑わう。

広小路の夜店は例年七夕頃まで行われるが、物静かで休んだからか8月1日まで行われる。

19日、御入府御城使 宝賀山城守殿。
御馳走御囃子組 一番□川御使 横井三太夫。
小謡。
高砂 シテは左門、鼓・笛などは七右衛門、宗右衛門、猪左衛門、信蔵。
小舞。
東北 シテは六郎、鼓・笛などは孫三郎、四郎兵衛、六郎兵衛。
祝言 養老 シテは六郎、鼓・笛などは七右衛門、宗右衛門、彦次郎、清九郎。以上。
右 御礼 御使。

24日から若宮で芝居の興行が行われる。
姉妹達大礎、終わりに往古曽曽根崎村噂を上演する。
立役は市川滝十郎。
同、片岡久我蔵。
同、尾上鯉三郎。
敵は松嶋市三。
立役は中山新七。
敵は松嶋万九郎。
同、浅尾儀右衛門。
悪は松嶋清蔵。
立役は谷村金蔵。
女形は山下八百蔵。
同、松嶋吉松。
女形は中村吉太郎。
この他小詰が大勢で略す。

8月。
8月10日からこの芝居が替る。
傾城黄金鶴(鯱か?)を上演する。

熱田本遠寺に西門が出来る。
また、二天門の像を門の奥に入れる。
元はこの前に有る。

14日、津嶋祭試楽が行われる。
15日、朝祭が行われる。

同日、若宮車引初めが行われる。
15日、片端若宮試楽が行われる。
16日、祭とも例年通り行われる。
秋冷えのためか例年より見物が少なく、静かである。

この頃、大須大塔の地築の寄進が多くある。
知多郡加家村から獅子舞を持参する。
それから西の村からも地築にやって来て、休息の間に獅子を舞い、見物が多く賑わう。
珍しいことである。

20日、万松寺で入院の儀式が行われ、珍しいのでここに記す。
この度東国から当山へ入院される。
この日、長楽寺を宿坊とし、この寺から出発された先には仏幟2流、灯籠1対、四角で絹張、もっとも火を す。
各裃を着てこれを持ち、乗物には天蓋を差しかけ、他にはない行列である。
門内を歩く際も宝蓋を差しかけ、幟・灯籠も同じ。
堂に入っていろいろ読物が行われ、人々が多く集まる。
ある人が言うには、入院の式だけでなく、天下泰平の祈祷を兼ねた式であると。
禅宗では珍しいことである。

29日から若宮の中芝居が替り、興行を行う。
伊賀越道中双六、桂川連理柵を上演する。

(p347~p350)

名水ってなんだかこのような言い伝えが多い

文化14年(1817年)。
1月。
1月1日、晴天。
それ以降ずっと天気がよく、雪が少し降るが積もらず。
11日夜、初めて少し雨が降る。

去年から西懸所裏の木を伐っており、今年早春から借家を建て始める。
近頃、山を崩して地をならす普請が行われる。
ただし、寺社方役人衆の役屋敷になる。

七ツ寺の金毘羅大権現では今月10日に祭礼幟を立て、提灯を灯して夜中も裏門まで開けて賑わうことがこの年から始まる。

大須門前で女曲馬の興行が行われる。
紙渡りの新しい技を見せる。
その他にも趣向を凝らす。

14日から若宮で芝居の興行が行われる。
敵討浦朝霧を上演する。
立役は藤松三十郎。
同、藤川八甫。
立は市川栄三郎。
同、中村百蔵。
敵は坂東滝蔵。
同、松本染五郎。
敵は藤川新蔵。
悪は山村儀右衛門。
敵は中村熊五郎。
立役は三枡大五郎。
形は谷村菊松。
同、山村富之助。
同、山下秀次郎。
同、芳沢稲三郎。
女形は芳沢いろは。
その他小詰が大勢。
これは大坂表で評判の順礼(巡礼)殺しの新しい狂言で、評判もよくておおむね繁盛する。

2月。
2月1日から菖蒲皮町来迎寺で三州桑子明源寺霊宝の柳堂伝来の円光大師画像、その他数品を弘通する。
当寺へは公儀から奉納の霊宝物がさまざまあり、近年では珍しい品々を弘通する。
詳しくは恐れ多いけれどここでは略す。

懸所櫓の普請のためにあちこちの村々から多くの人がやって来て賑わう。
この節の普請は大矢櫓2つ、中矢櫓1つ、小矢櫓が1つ。
大矢櫓は高さ7間(1間は約1、8メートル)の4層の5階建。
下は巾4間四方。
中矢櫓は3階で高さは5間半ばかり。
人数は150、160人。
100人くらいではなかなか骨組みが組みあがらず。
この大矢櫓を希望する村々は、早朝に着帳(帳面に名前や人数を記帳すること)せずには上ることが出来ず。
これは誰もが大矢櫓を希望するので、早くやって来た村へ請け負わせるためである。
このため村々の寄進同行は夜更けから出かけ、未明に矢来門へやって来て待ち合わせるので早朝から賑わう。
また、金銭の他に衣服・家財などを寄付する者が数多くある。
集会所にこれを飾る。

大光院和尚が普門品(観音経)の講釈を行い、参詣の者が多くある。

広小路で足が4本ある子どもの見世物が行われる。
これは去年から評判のもの。
子5月19日出生 勢州桑名、古野(コノ)村百姓平六倅。

6日から清寿院で竹田からくりの名目で七人芝居の興行が行われる。
藤川由三郎・坂東小重・嵐吉之介・松嶋富士介など。

11日夜丑の刻(午前1時)頃、四女子村で火事がある。
金持ちの家7軒、11棟が焼失する。

12日戌の刻(午後7時)頃、荒子観世音で仮殿から本堂への遷仏が行われる。
翌13日、入仏供養が行われて法花三昧を執り行う。
この日から開帳する。

17日から甚目寺如意輪観音堂を開帳する。
その他釈迦堂・薬師堂ともに開帳する。

18日から馬嶋明眼院本尊を開帳する。

21日から袋町聞安寺で上州厩橋妙安寺等身御影、その他霊宝を弘通する。

日置法然寺で近江国三井寺札所観世音ならびに霊宝を開帳する。
22日、小田井宝国寺に泊まる。
23日、到着する。
本町通りを行列する。
終日雨が降る。

23日から笠寺本尊を開帳する。

24日から法然寺で三井寺の開帳が始まる。
境内地蔵尊も開帳する。

25日から若宮の芝居は大五郎・いろはなどが抜け、不入りで興行を行う。
傾城佐のゝ船橋を上演する。
立は中山楯蔵。
同、坂東瀧蔵。
立は市川栄三郎。
敵は松本染五郎。
同、中山百蔵。
同、藤川龍蔵。
実悪は山村儀右衛門。
立役は藤松三十郎。
形は山下熊太郎。
同、同秀二郎。
形は芳沢稲三郎。
その他略す。

29日から大須の芝居でチンコの興行が行われる。
勝鬨莩源氏、阿波能鳴戸を上演する。
立は嵐新蔵。
同、藤川虎市。
同、嵐他三郎。
同、沢村蝶五郎。
敵は浅尾東蔵。
同、中山他人。
悪は中村次郎三。
立は嵐三津五郎。
形は嵐三蔵。
同、三条若松。
形は中山一とくなど。

3月。
3月3日から高須賀村願成寺薬師を開帳する。

同日、荒子開帳の供養で曼荼羅供を執り行う。
この日、高畠村から馬の塔・獅子舞を出す。

同日から若宮の芝居で切狂言に往昔八丈を上演する。

下中村薬師堂本尊ならびに観世音を開帳する。

5日、荒子で大般若転読ならびに法花塔供養を行う。

鳴海花井町花井薬師を開帳する。

同所西熊薬師を開帳する。

熱田に火の見が2ケ所できる。
二の鳥居と市場町。

山崎法泉寺本尊薬師を開帳する。

この頃から、田村農家で旅僧の教えから名水を皆に施す。
病疾を祈ると不思議と全快するとのことで参詣する者が多くある。
弘法大師が姿を変えて現れたと噂する。
また、出来町でも同じようなことがある。
これは石で諸病をまじなうもので、参詣が多くある。
これも姿を変えた僧が伝えたと。
それも弘法大師だと噂する。
矢田村の東漸寺西隣の小さな家に1人の老女が住んでいたが、ここに旅僧が1泊すると、この僧は四国を廻っており、讃州楠村微笑院の大師の影像を老女に与え、この御影に清浄な水を供えて詣でる人に施せば諸病はたちまち癒えると教えて去っていく。
その後村人はこれを信じて新たに井戸を掘ってその水を供え、竹のささえ(水筒)を売る店が出来てこの水を入れて持ち帰る参詣の者が多くある。
するとその家の周りには茶店・貸し座敷が数多くでき、開帳よりも賑やかで実に珍しいことである。

13日、法然寺で三井寺の開帳に弁慶の鍋を出す。
この日熱田の海に着き、14日から拝見させる。

信行院千部会で越前国正万寺が法談を行い、能弁で繁盛する。

海東郡花常村正覚寺で井中出現の仏を開帳する。

北馬嶋村で江州慈教寺霊宝を弘通する。

28日、殿がお国入り。
東海道を上られる。
御着城御礼御使。

この頃世間の噂では、あまざけ姥(ばば)という者が町を歩き回り、あまざけはいらぬかと言われてなにとぞと答えると流行病となってしまうと人々は大いに恐れる。
そのまじないだと杉の葉に南天と唐辛子を結びつけて門に掛けるところや馬の沓をかけるところがある。

4月。
4月1日、紀州様が国入りで東海道を旅する。
この日七ツ寺へ立ち寄られ、裏の庭の亭へ入られて少し休まれる。
珍しいことである。

同日から南寺町光明寺開山湛誉上人400回忌、別行念仏(別時念仏)ならびに説法が行われる。

両替町西平田所の門構・玄関が出来る。
これまでは町家作りであった。

3日、成瀬隼人正殿が名古屋に到着する。

17日、祭礼が巡行する。
この朝、社参される。
先駈御奉行は田宮半兵衛、藤田市蔵。
押乗御先手頭は千村多門、中山文左衛門。
本町の車は水引が替る。
今まで通りの織物。

25日から蒲焼町真広寺で板敷山宝物を弘通する。

赤塚町心海寺で石枕の聖人の像、その他宝物を弘通する。

近頃、大須の塔の土台を掘っていたところ、土の中から三鈷を掘り出す。
これは天台・真言宗で用いる仏具。
殊の外めでたいとの噂がある。
また、太刀も出ると。

書き落とし。
6日から大須の芝居が替る。
拳揮(ママ)廓大通、加賀見山 草履打と長局を上演する。

16日から清寿院で七人芝居の興行が行われる。
立は嵐松之介。
形は同半四郎。
形は花桐鶴蔵。
悪は片岡助五郎。
立は富士松素桐など。
これは竹田からくりの演目。
狂言は恋女房。

21日から大須の切狂言に忠信講尺、兜軍記が入る。

26日、志水甲斐守(尾張藩重臣・忠喬)殿死去につき、28日まで鳴物を禁止する。

29日、志水侯の葬式が行われる。
6ツ時(午前6時)、高岳院に棺が入る。
それから尾頭泰雲寺で休息し、大高長寿寺に棺が入る。

晦日(30日)から、大須の芝居が替る。
三拾石艠始を上演する。
切狂言は今まで通り。

当月15日から一夏百(100日間の修行)。
ただし90日間。
惣見寺で結制を行い、院主卓州大和尚が壁(碧)巌集の講釈を行う。
聴聞の者は400余りの僧。
陽岩院へは和尚たちが泊まり、東林院は雲水の宿となり、光勝院は病気の僧の休憩所となる。
その他、東林院の北東に仮屋を建て、ここにも多くの者が泊まる。
また、尼僧は橘町裏に借家を借りて尼僧寮とする。
当派には俗人のまま居士号をつけ、袈裟衣を着た有髪(ウハツ)の者も数多くある。
特に九州あたりから来た者が多いと。
殊の外多くの人が集まる。

(p343~p347)

あれこれと寄付の方法を寺院は考えるものだ

文化13年(1816年)。
9月。
9月2日から海老屋北隣りの小川屋弥助が1個2文のあん餅を作り始めて売り出す。

同日から清寿院の操りは新薄雪と終わりに桂川を上演する。

5日、荒子観音寺本堂の再建が行われることになり、この日棟上げを行う。
未の刻(午後1時)、儀式が行われる。
人が多く集まる。
投餅の棚を門内門外とも多く拵えて大賑わい。

去る4日、民部卿様(一橋斉敦)逝去につき普請は3日、鳴物は7日禁止すると。
9月8日、公儀御触がやって来る。
物静のためあちこちの神事は延期される。
桑名町戸隠の試楽は15日夜に執り行われる。
大曽根八幡、飯田町天道、南寺町天道も延期して執り行われる。

熱田社舞楽は長らく途絶えていたが、去年から願い出ていたところ、当正月に許可が下り、来年遷宮の時から始まって毎年執り行われはずである。
このため、当24日に寺社奉行水野氏屋敷で舞楽調(予行演習)を行う。

24日から東懸所で櫓の地形搗きが行われる。
この日築始めが行われる。
古渡村から寄進にやって来て賑わう。
ただし、雨が降る。

西御坊へ門主から法義相続の使僧として光林寺という学者の下向し、法談を行う。
能弁で老若が参詣し、いろいろな僧や一般の者たちが多く集まる。
西御坊では近頃珍しい人の集まりで繁盛する。

熱田尾頭で両大関をそろえた相撲の興行が行われる。

10月。
10月1日から東懸所に使僧として九州□講師易行院が下向し、執持抄を講釈する。
化僧(虚無僧)も数多くいる。
8ツ時(午後2時)、御堂で法話を行い、人が多く集まって近頃にない繁盛ぶり。

5日から清寿院の操りで日蓮上人御法海を上演する。

16日夜4ツ(午後10時)頃、西枇杷島二ツ杁で火事がある。

18日から若宮で芝居の興行が行われる。
奥州安達原を上演する。
立役は藤川八甫。
同、中山百蔵。
立は松嶋新蔵。
敵は藤川龍蔵。
同、坂東瀧蔵。
悪は山村儀右衛門。
立役は中山文七。
形は山下秀次郎。
同、同熊太郎。
女形は芳沢いろは。
その他にも小詰が大勢いるがいたって不入り。
文七といろはだけ人気である。
最後に京鹿子娘道成寺をいろはが演じたところ評判がよく、初めの狂言は不評。

公儀西御丸(家慶)御出生様(世継ぎ)逝去につき、鳴物などは3日禁止、普請は許される。
27日から29日まで。

27日夜子刻(午後11時)過ぎ、呉服町下新町あたりで心中がある。
女を殺して自害する。
見物人が多くある。
この男の鼻紙入れに辞世の歌がある。
行末をしらぬ夕べのゆふぐれに 世におそろしき花のちるらん。

11月。
11月2日から若宮の芝居で切狂言を上演する。
吉原細見図 上下 小わた 甚三 文七の評判がよい。

6日から大須の芝居で五重塔の寄進のため府下の素人に田舎廻りの役者がまじって興行を行う。
府下の素人は日置あたりの者が多い。
絵本太功記、風流七段獅を上演する。
中村栄枝が演じる。
この栄枝という女形は笠寺村の三右衛門という者と。
その他三升柴蔵、中山楯蔵などの役者は一ノ宮、四ツ家、稲葉あたりに住む者が多い。
素人でも表方べか吉は名人。
1日50文の通り札(入場券)で瓦1枚の施主になれる趣向だと。

15日から若宮の芝居が替る。
芦屋道満大内鑑、最後には娘道成寺を上演する。

大須門前でじゃこう猫の見世物が行われる。
全身が黒く、薄い色に濃い縞模様がある。
目は赤銅の鋲のようで、尾は長く、横に曲げて歩く。
絵に描いたものとは大違い。
これは本物ではない。

12月。
12月、今年の冬は寒中であっても珍しいくらい暖かく、先月から雨は降るが、雪は降らず。
ようやく10日頃、初雪が降る。
西新町あたりでは山椒の木の芽が出ると。
梅は花盛り。
江戸では桜も咲くと話す。
寒中はますます天気がよくて暖かく、野辺に出て遠望すれば霞など春のようで、珍しいことである。

16日夜5ツ(午後8時)頃、熱田段夫山児御前(ちごごぜん)の乞食の居場所で出火する。
40軒あまりが焼失する。

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