名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

見事な出世

正徳3年6月30日。
近頃のこと。
行方政右衛門弟の青木源蔵は三宅与兵衛に弟子でいろいろ病人や憑き物などの祈祷、鳴弦(弓の弦を鳴らして行うまじない)をする男であった。
鉄砲は水野作兵衛の弟子で許しを得ていた。
用務で江戸へ下り、その後御勝手番となり、名を芸太治と付け下された。

僧って聖人じゃないんですよ

正徳3年6月28日。
この日のことだろうか、熱田田嶋の円通寺の住持が末寺の白鳥山宝持寺などと争いとなる。
十人組の中で末寺を贔屓すことがあって、円通寺は逼塞する。
末寺も宝持寺を始め4、5寺が逼塞する。

これは八つ当たり

正徳3年6月27日。
飛騨守御用番の時は御足軽15人ずつ交代で詰めることになっていた。
湯浅喜平次という者は行いが悪く、詰めていながら度々隠れて外出しており、それを仲間の小関藤兵衛が諫めていた。
この夜、藤兵衛が紙帳(安い蚊帳)の中で寝ていると喜平次が切り込み、騒ぎとなった。
後日喜平次は七間町の乱心牢に入る。
藤兵衛には傷を養生し、前々のように勤めるようにと。

宿なしは住所不定

正徳3年6月26日。
近頃、町で32年間宿なしの男について町奉行で詮議があり、この男は知多郡の者で毎年宗門一札も在所から出していたと云々。
これにより身元がはっきりする。
昼は日傭、夜は夜番をし、餅と酒と饂飩で命をつなぐと。

香典って地位とは関係なく、やはり関係の深さかな

正徳3年6月25日。
辰半(午前8時)過ぎに法事が終わる。
香典は公が5枚、右近将監様から10枚、御簾中から3枚、久昌院様から5枚、栄姫様から1枚。伊織様から2枚。
この他梅昌院様・帯刀殿内室、主水様母義。鈴木・野崎などから香典がある。

ここも徳安院とありますが得安院では

正徳3年6月24日。
この日から性高院で徳安院様の法事が始まる。
御馳走奉行は沢井織部・生駒因幡が勤める。
御名代は山澄主悦が勤める。
門固足軽頭は荒川武兵衛・間宮伴大夫が勤める。