名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

無実だったのでは

宝永5年3月25日。
柴山弥左衛門召仕の女やなが米を盗んだため叱りつけて暇を出すと、衣服などを部屋で調べて部屋でうつぶせになり、うなって出て来なかった。
男を遣わして引き起こすと、小刀で喉を突いて血を流していた。
しかし死に至るような傷ではなかったので、請人に遣わした。

小見山道英と一緒に住む甥の勘六が博奕で借金をし盗みを働いたことが露見し、近頃内密に押し込め置くと云々。

近頃、羽多野茂兵衛子の半弥が父へ預けられたとの噂があったが嘘であった。
無法者だった。

こんなことが許されるの、そりゃ怒られるわ

宝永5年3月22日。
磯姫様の御供をして江戸へ向かった新番8人は江戸へ留まるはずであったが、15日急に尾張へ戻るようにとのことで、江戸を出発しこの日尾張に到着した。
いずれも引き籠り、出ることはできなかった。
最初名古屋で御供を仰せ付けられた時から五十人衆と一緒になって御供をすることをとても嫌がり、いろいろなことがあった。
御屋形で源五兵・与兵が申されたのは今度の供は格別のことであるので、それぞれ一生懸命勤めるようにと。
川などを渡る際は和解のだから裸で飛び込んで輿を大事に守るようになどと丁寧なあいさつがあった。
すると新番8人の中から誰やらが進み出て、我らは水には無案内なので川へ飛び込んで輿を守ることはできない。
また女中の輿に裸で御供をするのはいかがかと余計なことを言った。
与兵も気分を害し、水に入ることはさておき、我らも御供することは大事と思っているのでお前たちと意見を組みかわすためのことだと。
それならばお前たちの好きにするがよいと申されると。
道中大井川と富士川で御供にあたった者はくたびれて持病が出たと言って全員駕籠で川を渡り、輿の御供をしなかった。
これらのことが耳に入りはなはだ不快と云々。

足軽頭大沢無手右衛門も御供でありながら本陣を通り過ぎ、江戸で叱られ、引き込むと云々。

自分が死ぬのは仕方がないが、なぜ嫁に託さなかった

宝永5年3月21日。
近頃名古屋で土に毛の生えるところがあちこちにあった。
文左衛門に庭で4月1日に生えた毛を見ると老人の髪の毛のようで細かった。
長さは4、5寸(1寸は約3センチ)ほどあり、多くは短かった。
馬の尾のようなものもあった。
諸国で生えると云々。
日陰や湿地に生えていた。

この日、禅寺町下河村丹左衛門手代屋敷の敷地に5、6歳の男の子が鼠色の袷、さなだ打の帯、昨日剃ったような月額、昨日切ったような爪で前の溝に落ちて死んでいたのを誰かが引き出して置いていた。
これは中橋裏日用取権助の子であった。
権助は永らく黄疽を患い、もう長く生きられないとこの子をこのあたりに捨てた。
昨日このあたりを泣きながら歩いていたが、大雨で水のたまった堀へ転び落ちて死んだのかと云々。
22日に町奉行へ渡した。
町方では戸別に判を取り、吟味した。
権助の女房はこれを聞いて大事になってしまったと思ったのか翌23日2歳になる女に子を抱いて江川の下に身を投げて共に死んでしまった。

こういう嘘はバレると大変

宝永5年3月18日。
喜子進様が川狩(漁)の前に石山に寄られたところ、小普請近藤惣右衛門と新番近藤文太夫の子で御目見の2人は酒に酔っていたので、喜子進様が来られるとと聞いて寺門前で人止めなどを行い、笠などはとらせた。
喜子進様はお忍びであったので御用達西尾茂助などが気の毒がり、いろいろとごまかして報告すると云々。
この時、成田忠左衛門弟の成田林蔵がこの様子を見ていて、喜子進様から遣わされた木下喜蔵という者だと偽って惣右衛門を送った。
その後、このことで調べがあった。
喜蔵は八三郎の歩行だったので詮議が行われたが、知らないと答えた。
惣右衛門に本物の喜蔵を見せたところこの者ではないと言った。