名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

どうして2回書いたのだろう

宝永6年3月22日。
竹腰山城守の家督が相違なく同姓民部に仰せ付けられ、
駿河守・主水の2人が山城守宅へやって来て申し渡す。
民部の今までの知行5000石と屋敷は召し上げられ、帯刀のことは民部の面倒になるようにと仰せ渡す。

山城守郷手代山田佐助が20日に味鋺川に身を投げて死ぬ。
大小はなく、昨明け方連れて来て葬る。
坂下で町屋を持っており、妻子はなく32歳と云々。

雨が降ったら死なないのかい

宝永6年3月21日。
この日から文左衛門の蔵の壁の下地を3人がやって来て行う。

大須でこの日から十三郎の狂言、演目は丹波与作。
昨日明け方、太鼓を叩いて廻っていた。

竹腰山城守郷手代山田左介が昨日味鋺川に身を投げて死ぬ。
32歳であった。
大小刀を差していた。
この日夕暮れ、連れて来て弔う。
坂下に町屋を持っており、妻子はいなかった。
後にも記す。

16日に鉄砲塚町あたりの50になる町人の妾が夫のことを訴えると云々。
身を投げると沢井助左衛門向かいの堀端で伏せていたが、雨が降り出したので帰る。
とてもしぶとい愚痴っぽい女で、この頃追放となる。

城の石垣普請のため岩崎山から石を切り出し、大八車で曳く。
車引役の者が岩崎から名古屋まで石1つに12匁(銀)ずつかかると云々。
清水から岩崎まで道の細いところには馬寄ができ、岩崎山の小屋がけ普請の小旗がたくさんあった。
人足にたばこを飲ませるには法螺貝を吹いた。
拍子木では石切りの音に紛れて聞こえなかった。

皆さんかなり入用です

宝永6年3月20日。
文左衛門は蔵の柱立、棟上げを行う。
日用1人庄蔵、召仕1人市兵衛、召仕1人市右衛門と僕2人と合わせて6人。
昼前に終わり、棟上げに御酒ならびに麻1緒・鳥目500文・するめ1枚を上げ、それに酒1升を添えて大工に持たせる。
強飯を1斗3升を用意し、源右・市兵衛・半之介・おかつがやって来たので強飯・酒・肴を出して楽しむ。
源右から昨日鰡が1匹、この日は市平から鰡2匹・酒3升、七内からいか3杯、おかつからいか5杯、勝蔵からいか5杯、瀬左内からいか5杯・さより6本、三右衛門からかれい1枚、翌日弥左からいか7杯、八郎右からいか5杯、さより6本、伏見町からかれい2枚、さより9本。

酒を飲んで坂道を歩くと死ぬぞ

宝永6年3月19日。
巳(午前9時)から文左衛門は丹左・同子瀬左・八郎右と竜泉寺へ出かけ、あちこちで酒などを頂き、険しい道や坂を通りながらとても楽しむ。
夕暮れに帰る。

こんなに早く渡さないといけないのか

宝永6年3月18日。
文左衛門は役料手形を代金6両の予定で理右衛門に遣わす。
金は来月20日までに受け取るはずであった。

節約、節約と言う割には

宝永6年3月17日。
尾張の御殿の入札のため平田半右衛門が京へ出発する。
(27日に帰る。)
江戸の者に札が落ち、金250両ばかりと云々。

預けられた2人は何だったのか

宝永6年3月15日。
夜、西鉄門外の土橋の石垣が崩れる。
一昨年膨れた場所であった。

戌半(午後8時)頃、女1人を曲淵仁左衛門北ノ町相応寺前から追いかけて切る。
女の大きな叫び声がした。
刃が切れなかったのか傷が多かった。
終には仁左衛門門前北寄りで倒れ、しばらく女は水を求めていた。
人々が集まり、何者が切ったか、敵を取ってやると言ったが、話すことなく死んでしまった。
この女の初めの住まいは阿知波理太夫借屋であった。
九郎介は妻子ともに目あかしの指図で理太夫に預けられ、文左衛門下片町の西側に住む紺屋杢左衛門も大屋十左衛門に預けられる。
いずれもやがて許される。