2024-01-01から1年間の記事一覧
正徳1年10月25日。夜、岡八郎右衛門は脇差で腹と喉を突いて自殺する。27日夜、瑞雲寺に葬る。
正徳1年10月24日。中根新六のところへ佐分源太左を呼ぶ。昨年春御覧になった残り槍を御覧になられる、その上一昨年に書き出した後の新弟子の名と昨春御覧になった弟子の中で精を出して勤めている者、あるいは怠けている者、あるいは病気になった者、役…
正徳1年10月21日。少し前、鈴木伝太夫は伏見へ着くと腹を下し、いろいろ試したが回復しなかった。願い出て京に向かって養生する。1日に人参を2分、後には3分ずつ服用するがよくならなかった。今月1日から医者が変わり、人参を止めると回復に向かう…
正徳1年10月15日。小賄頭佐藤九大夫に暇を出す。領分には居づらくなったと云々。仕事については不届者であった。翌16日夜、九大夫弟奥茶堂小頭萩了益が自殺する。兄のことなどで借金があったか。但し、久大夫の家族を引き請けていた。家計がどうもな…
正徳1年10月17日。困窮に付き100両拝借していたにもかかわらず、近頃中川庄蔵は20両を出して遠山与三介と屋敷を替える。人はこのことをあれこれ話題にした。近頃、細野伝三郎が乱心する。初めは出雲守様(松平義昌)衆で今は浪人、巾下に住んでい…
正徳1年10月15日。沖野一郎右衛門は押者の頭をはった粗相のため役を解かれ、閉門となる。与兵衛殿の宅で申し渡す。その際の押者杢左衛門は20年あまり勤め、場を考えてよく我慢したと金1両を下された。今まで煩っていたが回復する。弟が出向き、前々…
正徳1年10月9日。栄山七平次は御深井から堀川へ出て篠島に流される。江戸の者で御内証(内室?)の者で乱暴者であった。安藤権兵衛に馬廻吉田半左衛門が附いて木曽路を戻り、この日到着する。加藤作ノ右衛門の子らが出迎える。権兵衛屋敷は御園にあり、…
正徳1年10月8日。萱場池のあたりで小普請岩瀬杢右衛門が死ぬ。屋敷は召し上げとなる。
正徳1年10月7日。松寿院様の7回忌であるが、性高院が韓人の用務のため法事は12月に延期となる。今朝はその代わりとして法事がある。
正徳1年10月6日。文左衛門は酒売場をしつらえ、丹左などと見物する。辰(午前7時)過ぎ、朝鮮人が通る。対馬守の家来は大人数で、いずれも槍印・乗懸馬印など皆はくま(ママ)であった。巳(午前9時)過ぎに終わる。梅昌院様は高麗屋で、二の丸様は古…
正徳1年10月5日。建中寺へは名代を送る。供の五十人衆などが韓人の用務で不足したためか。韓人は起へ4つ頃(午前10時)になって到着し、昼過ぎに出発する。性高院へ下官などが昼頃から段々到着する。中官も申(午後3時)前から段々とまず到着する。…
正徳1年10月4日。本町、その他の通りでは戸に簾をかけ、屏風をきらびやかに立てて廻し、見物の男女が1日中溢れる。その様子はまるで祭礼のようであった。大須門前両側に桧林の木で馬屋を仮設し、あちこちから馬を用意する。その他大須の裏から七つ寺・…
正徳1年10月6日。この日の暁寅刻(午前3時)御園通りから下り、石臼屋清左衛門の北の小路の路地から入る。連枝様方も臼屋のところ、公の次の間で御覧になる。膳を召し上がり帰る。(朝鮮人の来名のこと)正徳1年10月9日。朝鮮人の用務を務めた直衆…
正徳1年10月4日。快晴。正徳1年10月5日。曇。巳(午前9時)から雨が降る。昼から次第にジメジメする。亥(午後9時)過ぎ、大雨となる。子(午後11時)前に雨が止む。晴。正徳1年10月6日。快晴。正徳1年10月8日。曇。戌(午後7時)過ぎ…
正徳1年9月29日。文左衛門は左官に長屋の内や外などの壁を塗らせる。七間町下でごまの灰(泥棒)4人を捕らえる。池鯉鮒から目明しが後を付けていた。桑名の浪人と云々。朝鮮人の荷物が先にやって来るので、成田藤右衛門・水野文四郎が急に申し付けられ…
正徳1年9月24日。文左衛門は蔵の中を塗る。左官善七が行う。
正徳1年9月23日。文左衛門は源右へ行き、朝鮮人の用務についての書出し(抜き書き)を承知する。移文集にあり。修理殿から小頭への手紙で言う。言いつけられた書付一通を寄越された。この書付の趣旨は畳奉行朝日定右衛門へ申し聞かせる。定右衛門にはこの…
正徳1年9月22日。讃岐様実母が亡くなったので、馬廻小頭安藤権兵衛は使いとして江戸へ行った。この日使いの勤めから帰り、使いの報告を鈴木新兵衛に話した。それから横井孫右へ出かけたが、挨拶が済んでも立ち上がらなかった。席に伏せてただただ泣いて…
正徳1年9月19日。沢井仁左衛門殿はこの日寄合に出た。帰りの途中で妾が安産したことを聞いた。助左衛門控屋敷へ戻り、いつもは奥へ入るのにこの日は直ぐに座敷へ入った。先に人を走らせ、用務の書付が書くので座を掃除しておくようにと云々。戸を閉めて…
正徳1年9月18日。御目見についての申し渡しを山口の廻状から写す。一 昨日河村兵蔵殿から出向くようにと申しきたので、拙者ども出向いたところ仰せ聞かされたのは御目見衆の出仕についてはこの間見受けられなかった。どういう申し合わせで出向かなかった…
正徳1年9月15日。成瀬・平田・寺町の3家は用務のため召し上げるとこの日言いつけられる。馬5疋が夕暮れ前に通る。馬上には大泉太兵衛でかなり先に通り、碓氷清左衛門が馬上で馬についてやって来る。小串□馬装束などは華麗であった。丸提灯には尾の字の…
正徳1年9月13日。九条様は土地を手に入れる。少し前に上京した大工は川村善次郎・加藤弥七・釻田甚平・伊藤善左衛門。 近頃、熱田田嶋丹波弟の東次郎は同所海国寺で金を多く借りていた。大喜主殿の子が加判し、丹波の田地を密かに書入れ(抵当)にしてい…
正徳1年9月10日。近頃、高梨清次郎が逐電する。兄新右衛門は関係を絶っていたが、これに関わり、この日小頭里村小之左衛門のところに現れた。大小は木で、帷子の上に下帯を帯にしていた。頭尾崎伝兵衛に預ける。清次郎初めは但馬様(松平友著)衆で、昨…
正徳1年9月8日。文左衛門はいわしを100文で800買い求め、塩もみにする。近頃、池鯉鮒で松平和泉守飛脚の者が路銀に困り、銭を本陣で借りようとしたがうまくいかなかった。その上、泥棒と思われて縛り上げられそうになったので、切りつけて2、3人…
正徳1年9月7日。この日で勘大夫が承った松の木を引く作業が終わる。大きいもので細い方の切り口が7、8、9寸(1寸は約3センチ)、長さは3、4間(1間は約1,8メートル)ある。小さいもので長さが2間と少し、切り口が5、6寸であった。
正徳1年9月6日。夜、戸田町の裏屋へ放火があり、藁葺きの家が燃え上がるが、すぐに消し止める。家主は平田半右、加兵衛の甥で初めは手代で板へぎだった。こっぱ(木端)が積んであるのをよく知っていて火をつけたと云々。このため町々で立番が多く出て、…
正徳1年9月2日。文左衛門は米2石を1両で8斗2升で売払う。
正徳1年9月5日。建中寺を長上下で参詣する。正徳1年9月8日。昨日、建中寺を参詣する。敬公、瑞竜公の廟、霊仙院様へも参詣する。正徳1年9月15日。出仕があり、その後御下屋敷に逗留に出向かれる。正徳1年9月17日。5つ半(午前9時)、供揃を…
正徳1年9月6日。近頃の夜、宵のことであるが、岐阜山が大きく揺れる。山中の鳥獣が鳴き騒ぎ、まるで人が叫んだり泣くようであった。その後、因幡神社の拝殿天井の上から火が燃え上がるのを人が集まって消火する。真ん中だけが焼け落ち、周りの四方はは無…
正徳1年9月2日。夜寒く、寝具を用意する。正徳1年9月3日。薄曇。正徳1年9月4日。薄曇。戌半(午後8時)から雨が降る。1晩中雨が降る。正徳1年9月5日。雨。昼から雨が止む。薄曇。申(午後3時)から晴れる。正徳1年9月6日。晴。正徳1年9…