名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

2024-01-01から1年間の記事一覧

100年経てばこんなものでしょうか、さびしいなあ

宝永7年11月30日。文左衛門は辰(午前7時)頃、平田院を参詣する。文左衛門は昨日香典100文を持参していたが、仲間やその他の者に効くと何れも200文であったので寿心に頼んで200文とする。吸物・こはめし(強目地)・に(煮)物・酒などは昨…

義直の守役を勤めた犬山藩主平岩親吉

宝永7年11月29日。この日から明日まで平田院で主計頭(平岩親吉)100年の法事が行われる。導師は建中寺香誉上人、他に出僧は30人、その中には遍照院上人、善住寺上人、全順院法輪院、以下は平僧であった。昼過ぎに経が始まり、申(午後3時)頃過…

これも恩赦ですか

宝永7年11月26日。文左衛門は口米帳面書のため昼前から源右へ出かける。小川善兵衛が病気のため加藤平左衛門が計算をする。他にも元右衛門・武右衛門がやって来て、夜食も頂く。亥(午後9時)前に帰る。7月に駿河町で狼藉をはたらいた大工は多く預け…

顔まで潰すとは極悪

宝永7年11月25日。近頃、酉(午後5時)過ぎ、東方に明るい星が出る。近頃、知多郡で木綿100端を馬に積んでやって来るところを切り殺し、顔を叩いて潰し、誰かわからないようにして木綿を盗み去った。このことは町中にも触があり、盗みを探し出す。

見舞なら大目にみましょう

宝永7年11月22日。文左衛門は辰(午前7時)過ぎから藤入・弥次見事共に大森寺へ出かける。藤入新田で2人が持参した弁当を食べる。大森寺は近頃足を煩って伏せていた。文左衛門と弥で酒3升を持参する。夕飯を頂き、申(午後3時)頃帰り、直ちに宝勝…

正義は負けたか

宝永7年11月19日。昨日、磯貝善左衛門の悉皆人が牢に入る。これは13年前に大塚村の百姓が娘を長野村へ奉公に出していたが、流産して死んでしまった。あるいは絞め殺したとも。この時金20両で娘の父親に謝罪し、大塚村の庄屋惣右衛門と相談して事を…

乳母が決まりました

宝永7年11月18日。青木小左衛門の女房とおさし(御差、乳母)2人がこの日江戸へと下る。馬廻小頭鳥居藤左衛門が一緒に江戸へ向かい、町医者竹田玄悦もこれに従う。おさし2人は姫君様御膳番飯沼清右衛門の妻と万五郎様衆近藤伴六の妻の2人であった。…

やっと捕まった

宝永7年11月17日。少し前、生田橋のあたりで木綿売りを切ったのは野崎清左衛門の召仕とわかり、牢に入る。近頃、知多郡南野の堤で心中がある。鳴海問屋帳付が同宿の女と密通する。在所へ行くといって女を殺し、自分は自害し損ねる。

屋敷って売れるんですかね

宝永7年11月14日。近頃、中根助右衛門・大梶定右衛門・下権左衛門は本屋を分けて売る。川口三右衛門・水野角四は家屋を粗末にしたと新左衛門に叱られる。

結局本職を雇うんですね

宝永7年11月11日。この日の井戸の作業は、井戸堀清六と日用の3人、それに市右衛門・八平の以上5人であった。桶が1つ不足して急いでまた1つを足した。かれこれ金子1両1分朱ほど入用となった。不同米は9斗1升、定金米は8斗9升となる。

実体のない土地ころがし

宝永7年11月10日。雇った井戸堀の見習はとても年をとっていたので上手く作業が進まなかった。そのため未(午後1時)過ぎに本職の井戸堀清六を呼ぶと、500文で請け負うとのことであった。初めに八平の言葉を信じ、本職の井戸堀を雇わなかったため出…

江戸時代は東区でも井戸を掘れば水が出たんでしょうか

宝永7年11月9日。文左衛門は今日から日用2人、井戸堀1人を雇い、井戸の作業にとりかかる。

跡目を継ぐって色々ありますね

宝永7年11月8日。少し前、岩屋伴右衛門を養子にすると、出雲守様(松平義昌)衆米沢久右衛門が4月23日に暇を願い出るが、願いは叶わなかった。平右衛門は必要ないと仰せ付けられた上に、跡目が必要ならば、惣領の弥七を外へ出すべきではないのに、弥…

素早い処分

宝永7年11月11日。夜、茂平治は伝大夫長屋で切腹となる。その手際はとても良かったと。使いは古高善右衛門、検使は土肥縫大夫。介錯は都筑小兵衛が務め、これは茂平治の願いにより仰せ付けられる。

ここまで行けば酒乱

宝永7年11月7日。26、7になる今井茂平治は水右衛門の養子であり、実は佐藤氏であった。茂平治は江戸の者で30あまりの前田荻之右衛門を切り殺した。大田慶治郎がやって来て、闇夜で何も見えなかったが剣の光で茂平治を捕らえた。後に小姓役浅羽喜代…

今ならインフルエンザの大流行

宝永7年11月3日。近頃、特に山口あたりで疱瘡が大流行する。荒川十大・平沢弥八・市瀬助大子・相原弥右衛門子など。一々は記さず。

運ってやつですね

宝永7年11月2日。寺田弥右衛門は役を解かれ、馬廻りとなる。足米は下される。先日の火事の際、夜が明けて食事に戻り、最早火もおさまったので加嶋忠左衛門のところを見廻る途中で長屋半左衛門に出会い、どこへ行くのかと咎められ、番所を空けたことを問…

それでも礼はつくしたってことか

宝永7年11月1日。戌刻(午後7時)、供番沖野一郎右衛門が使いにして評定所東揚屋にて南部戸大夫・成田林蔵・村瀬彦蔵・小栗清太夫の4人に改易を申し渡す。いずれも門の外から駕籠に乗せ、大小刀も渡し、思いのまま行かせる。戸大夫妻子は昨年から今ま…

宝永7年11月の地震です

宝永7年11月20日。明け方前、地鳴りがして少し揺れる。

宝永7年11月の天気です

宝永7年11月1日。空、晴れ渡る。宝永7年11月3日。夜、曇る。酉半(午後6時)、少し時雨れる。宝永7年11月4日。夕暮れから曇る。戌(午後7時)から雨が降る。宝永7年11月5日。快晴。宝永7年11月6日。快晴。宝永7年11月11日。穏や…

乳母の募集の話ですね

宝永7年10月29日。文左衛門は今朝琉球人が宿を出発するのを見物する。音楽が流れ、ひっそりとしていて人も集まっておらず、よく見えたのはよかった。辰刻(午前7時)に出発すると云々。井伊掃部隠居覚翁軒が江戸へ召される。この夜、熱田に泊まる。渡…

小田切春江さんが行列を描いてます

宝永7年10月28日。薩摩守吉貴(タカ)は昨夜桑名に泊まり、未(午後1時)頃、熱田で昼の休憩をとった。この時文左衛門が出向いて見物したところ、東の裏道から本陣に入られたので見ることができなかった。見物が多く集まった。申(午後3時)過ぎ、ま…

守秘義務は昔からあった

宝永7年10月25日。奥番沖野伴右衛門は御側に仕えながら、内証のことを外に漏らし、批判したことははなはだ不届きなことと思われた。きつく仰せ付けられるはずであったが、考えがあり、馬廻りを仰せ付けられたと。きつく叱りつけた。

木曽路からですか

宝永7年10月23日。成瀬隼人正は尾張を出発し、木曽路を通って江戸へ向かう。

デマって怖い

宝永7年10月15日。御さし(乳母)御抱(雇用)の廻文がある。小頭の添状には18日昼までに、玄右衛門のところへ有無を報告するようにと云々。この夜、広井あたりで誰が言い出したか丑(午前1時)頃大地震があると。用心しろと言い出して、程度の差こ…

文左衛門、ご苦労様

宝永7年10月13日。父弥左衛門までは従弟のため類族(一族)の調べがあったが、今度の弥左衛門からはなくなった。今朝死んだと報告する。酉半(午後6時)、肝煎がやって来て、取置は任せると云々。戌(午後7時)過ぎに葬送する。導師は本住寺、号は修…

逝ってしまった

宝永7年10月12日。文左衛門は朝飯後弥左へ行く。この日明け方寅刻(午前3時)から呼吸が荒く、痰もからみ、とてもあがき苦しむ。今朝になりますます苦しむ。今朝から糞をさせようと世話をいろいろとやいたが出なかった。ひっかくので流血がひどく、ひ…

弥左衛門さん、手の施しようがない

宝永7年10月11日。弥左衛門は昨夜人参入りの粥を食べたが、今朝から人参が入っていることを知って嫌がる。この日は人参1匁(1匁は約4グラム)を煎じ詰めて粥に入れる。昼過ぎ、孝安がやって来て診る。養堅も昼頃に退席する。粥を食べなければますます…

薬はちゃんと飲まないと良くならない

宝永7年10月10日。行赦が3人ある。明け方丑刻(午前1時)、弥右から手紙があり、弥左を見舞う。当分容態は変わらないが、医者はいずれも九死一生と言う。初めは竹田玄悦、その後藤野玄瑞が診る。今朝友元がやって来て、人参の5分(1分は約0.4グ…

屋敷替えの際、今の屋敷より条件が悪いと金が出たようです

宝永7年10月10日。巡見衆は日の出頃にやって来て、八ケ寺の見分を行う。昨年は性高院だけに入られたが、今度は全員八ケ寺を検分する。嶋沢仁大夫・吉原甚大夫・高木十右衛門・町奉行両人・同心十人衆などが出向く。縫殿殿・靭負殿は性高院へ出向かれる…