名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

よくぞここまで詳しく病状を知り得たもの

正徳3年閏5月20日。
雲州様(松平義昌)が卒去する。
4月12日から病が進む。
田村升意による診たてでは痛むところが度々発するのは毒血があるからである。
その毒気を吸い出すからと膏薬に琥珀を合わせ、毒気を吸い出すと1日で血が数合になり、木綿300目でふき取ると云々。
典薬岡道演が4月中旬診断すると驚いて、1貼に人参3匁ずつ入れた。
28日、瀬尾昌宅が治療する。
5月2日から数原通玄と替わる。
同20日から久志本左京亮。
このの各は請われて、奉書を請けやって来る。
5月12、3日の頃は1日の食事は3、4匁であった。
附3匁・参7匁の参附湯(じんぶとう)を1日3貼ずつ、いつもの薬に人参2匁ずつ入る。
5月13日、上使池田丹波守が麻の上下で対面するが、送ることはできなかった。
同28日、殿様が会いに来られ、涙目で暇を願い、伊織様のことを頼まれると云々。
その他懇意の御礼に同席の摂侯(松平義行)、日向様(松平義孝)もそれぞれ涙目となる。
公はとても悲しそうであり、、摂但(松平友著)日の3人は毎日詰められる。
隅(徳川継友)房の2人も少しの間ずつ詰める。
家中からは1人ずつ詰められ、添書衆、坊主衆も附き従う。
御附人隔番は稲生猪右衛門・羽鳥伊左衛門が勤める。
5月21日、紀侯が入られる。
水戸侯はついに入られず。
公から朝鮮大人参30両を進められる。
それ以後また15両進められる。
巾着・印籠10を見舞いに進められる。
今月6日の朝の膳は25匁であった。
唐人外科の孫長崎者鄭道順がやって来て、痛むところを診たところなかなか治療は難しいと申し上げる。
同9日の朝夕の膳は60匁、2度併せて30匁。
同11日朝、膳20匁、夕は18匁。
13日朝夕に50匁。
それ以後水漬12匁云々。
水は毎日たくさん召し上がる。
この日までに人参代は350両ほどと云々。
14日、近頃とても不調と云々。
この夕方、小便に立たれて気を失うと云々。
一昨日から参附湯を1日に3貼ずつ、1貼に参10匁入る。
この夜から御子様方は表御殿に泊まられる。
夜中に御子様方を召され、対面する。
同15日、伊勢両宮太々神楽の御祓を行、これは公から進められる。
同18日、今朝まで櫛を入れられる。
19日、容態が切迫し、戌(午後7時)に摂侯が馬で入り、但侯も入る。
寝所に通られ、1晩中詰められる。
20日卯刻(午前5時)、摂・但両侯が帰られるが、辰(午前7時)過ぎ、また入られる。
諸事は摂侯の指図による。
昨夜から脈が絶え、食事も食べられなくなる。
亥下刻(午後10時半過ぎ)亡くなる。
年は63。
22日伝通院方丈がやって来て法名を上げる。
得安院殿前雲州大守従四位下羽林次将洪誉原境治邦大居士。
入棺、束帯、石灰で積む。
奥様薙髪(剃髪)し、久昌院と号す。
これは先年芝の泉岳寺から授かる。
上使奏者番松平宮内少をもって香奠銀200枚を進められる。
26日、酉半刻(午後6時)出棺。
吉伴子の日記に前後詳しくあり。
27日、殿様精進を解く。
得安院殿三百部読経二夜三日御法事式。(後略)