正徳3年6月5日。
(文左衛門?)は建中寺で仕える。
霊屋の扉も閉じてある。
徳岩院様の忌中のため名代はなし。
御唐門の外に筵1枚を横に敷いてあり、ここで拝礼をして帰る。
隼人正殿も参詣できるのであれば現れたはずだが、それならばと現れなかった。(?)
酉半(午後6時)、大曽根で火事だと大騒ぎになる。
文左衛門が門の外に出ると御国奉行、町奉行、御先手など見かける。
町火消、水番等も大勢が集まる。
数万の提灯が片端から下の町まで続いており、壮観であった。
しかし火事は大曽根ではなく、春日井郡上原村与次兵衛の家が焼けていた。
八平は先ほど北の方角に火が見えたのはこれだと言っていた。
その上、雲の間に稲妻が映り、燃えるように見えたので人々が騒いで集まったと。
摂州様(松平義行)衆大塩九郎右衛門が(註)今夜清水勘四郎を切り殺し、逃げ去ろうとしたが叶わず、切腹を仰せ付けられる。
その場に本道三郎右衛門も居合わせたが、逐電したため改易となる。
イには追放と云々。
九郎右衛門は貧しくて粗末な服を着ていたが、それを勘四郎は毎度あざけり笑うのを恥ずかしく思っていた。
ある時九郎右衛門は三郎右衛門にこう言った。
勘四郎は自分の粗末な服をあざけり笑う、もしまたこのようなことがあれば切りつけると云々。
ある日勘四郎が戯れ、九郎右衛門の粗末な服と眼病をあざけり笑ったので堪えられなくなりこの如くと云々。
あるいは、4、5日前に猪貝新五右衛門が理由はわからないが立ち退いた。
もしかするとこのことに関しての喧嘩かとも云々。
(註、3日の夜とも)。
この4人ともに摂津守様御歩行目付であった。