正徳3年6月4日。
伝馬町内川原町の酢屋平野屋彦兵衛養子の彦助はこの日船あそびに行き、落ちて死んでしまう。
継母と一緒に出かけていたので人々は訝り、怪しんだ。
翌5日、町奉行同心が行って死体を検視し、その上詮議があった。
この継母は大の博奕好きだった。
夫には妾をあてがい、自分は手下の男を従えて近国・他国で博奕の頭をしていた。
美濃のあたりでは久米頭(くめとう)といえば争うように人が集まったと云々。
継母の名は粂といった。
あるいはかめともいったが詳しくはわからなかった。
淫乱で酒乱と云々。
船中で博奕をしながらその間に男女の関係に及ぶので、継子はその間は船屋形の屋根に上っていたが、誤って落ちて死んでしまった。
いつも船では博奕をしていた。
詮議は博奕のことに及び、今月18日に仲間8人と牢に入る。
夫は家にいて、何も知らなかったので申し訳が立つ。
あわせて戸を閉ざし、町内に預けられる。