名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

でも普通に生きていたんだよ

元禄15年10月18日。
源了院達誉広啓義運大居士、六郎様の棺が相応寺へ入る。
寺尾内匠・目付上野小左衛門・五十人目付柴山百助がお迎えに行き、供をしてやって来る。
寺社奉行2人は山門のそとへお迎えに出る。
都筑弥兵衛1人はのべはし(?)の東にへり取(縁取)1枚を敷き、その上にお迎えにでる。
巳(午前9時)に送葬が行われる。
洒水は清安寺、鋤は観音院、鎖龕は寿経寺、起龕は養林寺、奠湯は阿弥陀寺、奠茶は西蓮寺、念誦は遍照院、導師は相応寺。
寺尾内匠が名代、半上下。
津侯(松平義行)。
雲侯(松平義昌)は中山瀬左衛門。
但侯(松平友著)は熊沢与三兵衛。
八三郎様(継友)は矢嶋伴右衛門。
岩之丞様名代は長上下。
いずれも焼香を行う。
送葬場の周りには松の木を立て、白幕を廻す。
10張で布50張、10間半(1間は約1、8メートル)。
本堂の橋の下から送葬場までは9間半。
廟へは送葬場から65間、筵5枚と敷布3巾を敷く。
東門から棺は入り、3度匝り、送葬、北門より出る。
南西は通らず。
いずれも額はなし。
石郭を石垣のようにして念を入れる。
周りは3尺(1尺は約30センチ)2寸(1寸は約3センチ)、深さは4尺5寸、蓋医師は4枚、廟の板囲いはそれぞれ10間余り。
石郭と棺の間は石灰を詰める。
覚 貞松院様送葬を思い出し、ここに記す。
貞享元年12月8日。
貞松院様逝去の際、桧の棺は長さ3尺8寸、横は2尺5寸、高さは3尺2寸、板の暑さは2寸5分(1分は約3ミリ)。
棺を納める下には石を置き、横には石3枚を立てる。
石垣のように接ぎ、立石4枚で蓋をする。
穴を掘り、埋める。
塚を築くまでは普請方が行う。
10日の出棺の供は成瀬隼人正。
棺を仏殿に入れられて帰られる。
諸事奉行は山澄淡路守。
寺の門外には寺社奉行2人が出る。
普請奉行は勝野太郎左衛門・松井一右衛門。
作事奉行は堀田半七・柴山甚五右衛門。
小路奉行は東理左衛門・木村九郎左衛門。
送葬は甚五右衛門。
作事は半七。
送葬場は板囲いをし、道筋には筵などを敷き、提灯を立てるのは作事方から。
塚が出来上がった際、廟の番人は貞松院様の足軽が勤める。
この日、相応寺の門を守るのは足軽頭彦坂平太夫
法事の間は若林四郎兵衛・星野三四郎
馳走奉行は沢井刑部・冨永内左衛門。
近頃、今月13日の夜のこと、日置の畑の中で五女子村杢兵衛が2ヶ所の傷を負い殺されていた。
くわいなどを掘っては、納屋へやって来ていた。
金もなく妻子もなく暮らす者であった。
劣るところもあり、人を憎むと云々。
何か無礼をはたらき斬られたのかもと。