名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

確かに怪しいなあ

宝永1年11月19日。
作事奉行河村丹左衛門手代9人は今まで町屋に住んでいたが、今度吟味役足軽の元屋敷を下される。
この日、屋敷奉行が屋敷を渡す。
禅寺町下にあり1人160坪ずつ。
この昼から寄合切米80石5人扶持の53になる野々山平太夫高岳院前西側半ほどの従兄弟相原助之右衛門のところに大黒頼母子の会のため玉虫元右衛門・山上伊之右衛門・岡八郎右衛門とともに集まった。
岡・山上は夕暮れに帰る。
玉虫と野々山は亥半(午後10時)に帰り、野々山は玉虫と別れて南へと行く。
まもなく野々山僕が助右衛門のところへ戻り、旦那から袴を持って来いと申しつけられたと言った。
すぐに袴を持って行くと駿河町光蓮寺前の南寄で平太夫があおむけに倒れていた。
大量に血が流れていたので僕は血を吐いたと思い、驚いて家へ知らせようとした。
しかし、大小が盗まれるといけないと大小を持って西新町西の平太夫の家に知らせた。
助之右衛門らが集まって駕籠に乗せて家へ帰るが、傷に気づかず吐血と思い、針立を呼んで針を立てるほどであった。
そうこうするうちに項(うなじ)に傷があるのを見つけ、初めて闇討ちにあったこと知った。
その他背(セナカ)に羽織って着ていた物に1つ横疵があったが、身には届いていなかった。
杖にも疵があり、折れていたとも。
項の疵1つが致命傷であった。
野々山は酒好きであった。子どもは3人あり、男の子は8歳、残りは女の子であった。袴を助之右衛門のところに置いて出かけた時、袴は次に取りに来ると言って出かけたのに、急に袴を取りに戻らせ、その後にわかに切られてしまったのは不審である。