名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

2023-10-08から1日間の記事一覧

類門って普通は同じ宗派ってことなんですが、それだと意味が通じない。お偉い人と繋がりがあったか

宝永2年3月29日。近頃、出雲守(松平義昌)様歩行衆が小普請巾下時田八郎兵衛のところで、頼母子のことで本重町の町人庄右衛門を叱りつけた上、むね打ちにする。頭のはげさき(生え際)のところを薬研(薬を擦ったり、ひく道具)のように切られる。2人…

左遷です

宝永2年3月28日。供番沼田権太夫は役には不向きと、役を解かれ、馬廻りとなる。この日から願正寺で勧進能が行われる。

こういうことがあるから長いひもなどは危険だ

宝永2年3月27日。夜、水野元右衛門兄はかねてから乱心し、預かりとなっていたが、下帯で首をくくって死んでしまう。願正寺の能の札が替わる。太夫は川北八郎兵衛、ワキは西村孫右衛門・長谷川左兵衛。

結局24日に弥左衛門さんは亡くなります

宝永2年3月25日。夜、弥左衛門を大光寺に葬る。戒名は奥本院幽玄日深と。文左衛門も参詣する。昨夜戌刻(午後7時)、前町奉行同心青木小左衛門・坂加兵衛・寺社十人林分左衛門・小池林太夫が弥左衛門宅にやって来た。大光寺弟子坊主1人を呼びに遣わし…

だからどうした

宝永2年3月20日。近頃、永尾全庵が町で長いいで立ちを用いて、長おり全庵と呼ばれる。中間の寝道具、つむぎ、それぞれの上に羽二重。全庵は寝道具を度々替えると。この項ママ。

こりゃ大変だ

宝永2年3月16日。文左衛門は昼から源右衛門・弥左衛門と岡崎蓮入のところにもてなしを受けに出かける。夕暮れ前、帰る途中で飯嶋七郎左衛門屋敷の坂を半ばまで下ると、弥左衛門が急に右の足をねじって転びそうになったので源右衛門召仕とともに介抱する…

文左衛門、出かけるか

宝永2年3月13日。22日から長嶋願正寺内で勧進能が行われるとの札が立つ。太夫は北川八郎兵衛、ワキは天谷新右衛門。

長患いだったな

宝永2年3月11日。近頃、壱岐守殿同心阿部又左衛門が乱心する。親類などもないため壱岐守下屋敷に引き取る。又左衛門はおととし頃から正気を失くしていた。その後回復しないのでこの度知行ならび屋敷を差し上げる。

これだけのことでも文書にしないといけない

宝永2年3月7日。文左衛門は武右へ書付を持参する。私に聟養子はありません、以上。宝永2年酉3月 朝日文左衛門 印。渡辺源右衛門殿。磯貝武右衛門殿。

金に換えないと生活はできない

宝永2年3月6日。役料米を売り払い、1両で8斗5升。代金は5両2分と銭426文。

内部の犯行か

宝永2年3月5日。夜、久屋下福富伝右衛門のところに盗みが入り、老婆の長持ちを釣り出して下の畠で打ち割り、中の物を盗み去る。伝右衛門は出かけていた。槍持が疑わしいと縛り置く。

名前がわかってて処罰しないのか

宝永2年3月4日。寅(午前3時)に地震がある。近頃、新丁あたりの諸士が博奕をしていると。松井林右衛門などだと。聟養子の廻文がある。彦兵殿の手紙には聟養子のない方もそのように書付寄こすようにと云々。武右のところへ来る7日昼までに持参すること。

やっぱり運の悪い人っているもんだ

宝永2年3月2日。未上刻(午後1時)、深井丸足軽頭の巾下阿知波加右衛門の家から火が出る。この時、辰巳(南東)の強い風が吹き、西北に向かって焼けて行く。夕暮れ前にはおさまる。文左衛門は城へ出向き、おさまった後直ちに政右と巾下へ出かける。丹左…

芝居ってのは今の芝居でなくて出し物のような気がします

宝永2年3月1日。彼岸に入り、大須で十三郎の狂言が行われ、ほかに芝居が2つ。軽業に大蜈蚣(むかで)。

宝永2年3月の天気です

宝永2年3月2日。夜、曇。宝永2年3月3日。快晴で暖か。宝永2年3月4日。曇。巳(午前10時)過ぎから雨が降る。時に止む。夜も降るが、また止む。宝永2年3月5日。曇。未(午後1時)過ぎから晴れる。夜更けから雨が降る。宝永2年3月6日。雨。…