名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

殿が牡丹を嫌いだからといって止めますか

文政11年。
4月17日、雨天のため祭礼は18日になり、無事終了する。
この日は見物場所へ殿が現れるのが遅れたのであれやこれや遅れてしまい、帰りの車を御還御門まで5両引きだすと暗くなってしまい、車4両ほどを真っ暗な中で高揚(高揚提灯?)だけで引きだす。

伝馬町の車は全てやり直し、天井・高欄はとても立派になる。
幕は近年変えていたので、伝馬町という文字だけを縫いかえる。
丹羽嘉六の書いた高欄梅の模様が出来る。

世襲の家禄30俵ほどの者が御小姓になって足高を下され、間もなく御書院番などになって楽をする人が多い。
(歌略)

大津町下で幟を鉄砲で打った者があり、とてもやかましい。

4月、御勘定所を建て替える。
長屋を前に出し、鈴木治部左衛門の屋敷と並ぶようになる。

5月節句で熱田の馬の塔がかなり出る。
大名衆の通行があるので朝四時(午前10時)までに終わり、5月18日には名古屋の馬の塔を中通りに出す。
各板締縮緬繻子絖(絹織物)の類で粗末な服はなし。
馬の数は100ほど出る。
17日午後、辰巳御櫓で見物されるので残らず出す。
天鵞絨の足袋などを履く者もいる。
上御園町の御輿洗。
これは20何年前に出したものだと。
美しい服で輿を釣る。
その輿は、箱のような台を青竹で拵え、その中四隅に子ども1人ずつ4人が乗り、真ん中で太皷を置く。
その拍子は、サイテクリヨ 太皷トコトコトン サシマシヨ 太皷トコトコトン。
この時高くさし上げる。
釣人ともに縮緬
米浜連。
これは甚だ奇麗で後から三味線、皷、太皷などで囃子ながら歩く。
しかしなから、これは梵天か御鍬祭のようで馬の塔らしくはない。
広井八幡蘇鉄組。
これは一番の大人数。
八ツ切(矢切、地名)の出した馬は1疋で大きな蘇鉄を作り出す。
色々な趣向がとても面白い。
これは矢切で500人が出ており、1人の入用は2両ずつと。
その中には獅子に牡丹の趣向があるが、中納言様は牡丹が嫌いなので天王で役人の止められて恥をかく。
全てが寄り集まって馬の塔をいったん天王に入れ、同心の指図で繰り出す。

肥後侯に丈7尺(1尺は約30センチ)を越える大男がおり、この年江戸へ御供をすると。
先年の穢多の大男よりもさらに少し大きいと。

5月から熱田大薬師が富(富くじ)の願いを済ませ、野間大坊も願いを済ませる。
2ヶ所で行われる。

5月4日から24日まで蒲焼町真広寺で越前吉崎正賢寺祖師聖人木像を開帳する。
蓮如上人鏡御影(肖像画)ならびに嫁威し肉附きの面を見せる。
6月4日まで延長する。

この節奥向き御出頭退役の御用達町人植木屋丸勘、丸蔵、周平・料理屋近久三伝・画師三光堂玉僊がしくじる。
(歌など略)

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