宝永3年6月17日。
未刻(午後1時)、恒河左五兵衛門外で相原政之右衛門召仕の覚内が切り殺される。
相手は中条主水殿同心今泉新右衛門の若党伊藤作太夫という者であった。
浜田宅左衛門のところへ立ち退く。
政之右衛門頭への口上書には、昼頃新町へ小麦殻を買いに覚内を遣わしたところ、八ツ(午後2時)頃に召仕の下女かるが物売りを呼びに門外へ出てみると近所で人が切り殺されたと言って走り込んできた。
政之右衛門が急いで出かけると、左五兵衛門外で覚内が切り殺されていた。
相手が誰だか分らなかったが、脇差は抜かずに海野庄太夫のところにあった。
仲間の男女に聞いたところでは覚内に日ごろから怪しいところはなかった。
覚内の在所は羽栗郡徳田村の者だと。
このことは略す。
実は八ツ前に作太夫と覚内とは新町に日用取関介のところでかなり口論をしていた。
大事になりそうだったので関介はわざと外へ追い出した。
そのため両人は政之右衛門長屋の徳右衛門の部屋に入って口論を続け、覚内は脇差を抜いて作太夫の頭を少し切りつけた。
作太夫も刀を抜いて覚内の頭を少し切りつけた。
覚内は脇差を捨て、作太夫の脇差を奪って外へ走り出た。
石川瀬左衛門が野瀬勘右衛門のところを見廻り帰る時、覚内が朱に染まりながら裸足で走ってきた。
またその後から1人が刀を抜いて朱に染まりながらやって来た。
その後に徳右衛門が棒を持って追ってきた。
瀬左衛門は政之右衛門が手打(討)し損ねたと思い、すぐに前方で刀を抜いてどうしたとのか言った。
覚内が手柄を立てようと余計なことはするな言って逃げようとするのを、瀬左衛門は庄太夫の大門のあたりに追い込み、片手打ちで右の肩を切りつけた。
この時覚内は脇差を鞘とともに右の手で持っていたが、これで受け止めようとして右の手の指先を少し切られ、鞘にも切込が1つついた。
覚内は脇差をここに捨て置き、半九郎との境近くまで歩いて行き、そこからまた西へと向かった。
よろよろと倒れようとするので瀬左も急いで追いかけた。
すると左五兵の門の外で倒れたので喉を1つ突いた。
この間に作太夫は宅左のところに走り込んだので瀬左は仕留められなかった。
瀬左は急いで政之右衛門のところへ向かった。
門のところで出会ったので手討ちにした、今死にかかていると告げた。
政之右衛門に詳しく話さず行ってしまい、そして覚内の肘をまた1つ突いて帰ってしまった。
これは瀬左の考えで切ったものもので、手討ちではなかった。
しかし、このままでは覚内が死なずに何かを話すと害を及ぶと思い、政之右衛門が殺したものであったか。
覚内の脇差は徳右衛門の部屋にあったが、このことは秘密にしていた。
作太夫は刀だけ持って退いていた。
宅左衛門門のしき井(敷居)には血がかかっていた。
八ツ過ぎ、文左衛門は出かけてこれを見た。そして政之右衛門の家へと向かった。
段之右衛門・平左衛門小頭へ知らせた。
しばらくすると小頭両人がやって来てこれを見て、政之右衛門の話した書付を持って行った。
申(午後3時)過ぎまたやって来て、政之右衛門家来の男女及び40になる覚内妻子の有無、覚内道具などを調べ、いちいち書き付けてまた持って行った。
申(午後3時)過ぎ、平左衛門は目付長屋半左衛門に行き、このことを話し、相手はわからないと言い届けた。
文左衛門は1日中政之右衛門宅にいた。
そのほか仲間・近所の衆などが次々とやって来た。
夜、小頭がまた来た。
しばらくして彦兵殿から手紙が届いた。
覚内の相手は主水殿同心新右衛門の若党で立ち退いたと。
政之右衛門は心配しているだろうからと知らせると云々。
半左衛門のところへ平左衛門は行き、相手が分かったと知らせた。
日が暮れて五十人目付小笠原与一兵衛、平野善右衛門がやって来て左五兵衛のところへ入り、庄太夫のところの脇差を外し、よく見た上で死骸も見た。
死骸には傷が頭に1つ、皮だけにかかった右の腕の傷、喉には突き傷2つあった。
これは左五兵衛召仕両人が扱った。
五十人目付は政之右衛門には立ち寄らなかった。
夜が明けて彦兵殿から手紙が届いた。
死骸を請け取るように云々。
卯半(午前5時)過ぎ、死骸を請人に渡した。
当3月まで政之右衛門召仕の女は作太夫娘分で、覚内は妻にしていた。
しかし、作太夫は納得せず、他へ嫁がせようとしていた。
夫婦とも同意せず、そうこうするうちにこうなってしまう。