名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

大掛かりな隠ぺい工作、何を隠そうとしているのか

元禄9年4月22日。
申刻(午後3時)、長岡庄左衛門下僕関介はこの春まで神谷段之右衛門のところで奉公し、関内と名乗っていた。
野崎村の仁左衛門の弟で、段之右衛門の百姓であった。
申8点(午後4時半過ぎ)、神谷段之右衛門のところへやって来て、茶の間の女を呼び出し、刺し殺した。
この女の名はさつ、親は八郎兵衛で巾下馬喰町に住んでいた。
この時、段右之衛門下僕六平は自分の部屋におり、喧噪の声を聞き付け、中門を開けるとこの場面に出くわし、大いに驚き、段之右衛門に告げた。
段之右が走って中庭に出ると、関介は両肌を脱いで腹を切り、咽まで切ったが、いまだ死ねずにいた。
しばらくあちらこちらをのたうち回り、手に脇差を持って何か言った。
そして日暮れに息絶えて死んでしまった。
或いは、関介腹を切ったけれど死ねないので、段之右衛門が喉を切ったとも。
そして小頭久兵・源右衛門・彦兵衛のところへ行きこれを告げた。
文左衛門は、亥半刻(午後10時)の両小頭から知らせを受けて出かけた。
その時、彦兵衛、家老近藤作太夫は既に集まっており、仲満へも知らせた。
町の仲間と市川伝兵衛が全員集まった。
この時、向かいなので磯貝武右衛門を呼びに行かせた。
そして内密に詳細を語らせ、その真偽を確かめた。
彦右からの指示がなかったので、段之右より未だ庄左に届けはしなかった。
文左衛門は夜が明けてから帰宅し、朝食を食べ、また出かけた。
昼に少し帰宅し、また出かけた。
申半(午後4時)に帰り、また夕暮れに出かけた。
そして子刻(午後11時)に帰った。
文左衛門が見た死体は、関介が女を抱き寄せて寄り添って死んでいた。
脇差は枕元にあり、側には銭200文、鼻紙袋が置いてあった。
小頭衆、明日の五十人目付への報告は夕暮れに関介がやって来て、女を刺し殺し自害したと。
この時、六平は裏で足を洗っていたが、部屋へ戻る時にこの事件を見て段之右に知らせたと。
行って見てみると、二人は既に死んでこの如くと。
段之右も六平もこのように説明し、それ以上何も言わなかった。
これは嘘がばれないようにするためであった。
関介の死体を運び出す前に庄左より度々人がやって来て、死体を見たいと言った。
しかし、彦兵よりの指図がないので、門より中へ入れず、死体も見せなかった。