名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

でも復帰はできなかったんだろうな

宝永1年12月6日。
手紙をもって申し入れる。
霊仙院様の法事が来る8日から10日まで行われると仰せつけられた。
この法事の間は音曲、鳴物は中止して静かにし、特に火の元には注意し、下々にいたるまで諸事慎むようにと仰せつけられたと老中から申し渡されたのでその意をくみように。
以上。
12月8日 上野小左衛門。
両城代衆。
その上、このことを同心衆、明同心衆ならびに足軽その他支配の者に申し渡すように。
申(午後3時)前、文左衛門は袴を着用し小一へ出かけた。
その後、甚五右・甚介もやって来た。
この夜は納采(結納)で二種両樽(酒の入った樽2つ)を遣わし、直に婚礼となった。
勝手(台所)へ行き、甚右の娘にも逢った。
盃事などを行い、勝手方には堀田半七・谷口安右衛門・岡田半左衛門・速水藤右衛門・青山三右衛門・吉田伊助・今村源之丞・小出元智。
その他甚右の兄、蟹江村俊庵なども居合わせた。
婿、舅の礼も終わり、戌半(午後8時)過ぎ、甚右衛門が座敷に現れると甚介が笑いながらこう言った。
婿よりも舅の方が疲れた顔をしている、肩衣を取ったらと言うので取った。
この時甚右衛門は何か覚悟していたのではと後から思った。
甚五右は盃を甚右へと渡し、甚右衛門は1杯飲んで、甚介へ渡そうとした。
そうこうするうち急に甚右衛門が脇差を抜き、甚介を突こうとしたのを甚介は押さえた。
向き合ううちに甚介と甚右衛門が声をかけたので、甚介も下がって脇差に手をかけた。
甚五右・半七・半左衛門・安右衛門・藤右衛門などが2人を分け、甚右衛門は中へ入った。
甚介は自分には思うところはないと言っていた。
甚右が脇差を抜き、自害しようとしたのかと思い押さえ留めた。
しかし、甚介は何も言わないので離れて向かい合ってしまった。
もし自分を突こうとしたら、自分も傷つけたはずである。
そうでなければ面目が立たない。
集まった皆がこう言った。
甚右衛門は前から気分がすぐれないように見え、自ら腹に脇差を突き立てそうであった。
甚介は突くこともせずよく押し留まったと。
皆で話し合ううちに俊庵・小一・又二、甚蔵も現れ、まったく甚介殿には含むところはない。
腹を突こうとするのをよく止めた。
傷つけてしまったのは申し訳ないと謝るので甚介も納得した。
甚介は左の手の内側を傷つけられたいた。
血はしばらく止まらず、子の刻(午後11時)頃にようやく止まった。
文左衛門は次の間におり、これを見ていなかった。
急いで走り出し、最初は文左衛門ひとりで甚右に出会ったが気分が悪そうだった。
日が暮るとますます気分が悪そうで、挨拶もできずうつろに見えた。
騒ぎの後、甚右衛門は勝手に入り、うつろな目つきでのぼせたようであった。
夜中も夜が明けても寝ることができず、白目をむき、のぼせたようであった。
初め勝手でどうでもいいような事を気にかけて鬱々としていた。
座敷で覚悟ができたと言ったときは皆酒の上でのたわごとかと思っていた。
甚右衛門は年による衰えと困窮で近頃元気がなく、鬱々として乱心したと。
帰りが心配なので甚助、甚五右と文左衛門で駕籠にのせ、子半(午前0時)に帰って行った。
文左衛門は帰りに酒のために吐いてしまった。
居合わせた者全員で申し合わせ、甚右衛門の脇差が鞘が抜け落ちたのを甚介が側にいて押さえて少し怪我をしたということにした。
しかし大勢人がおり、召仕の口から洩れたのか噂が広まってしまった。
さらに尾ひれもついて広まった。
甚右衛門は病気が良くなってももう外には出られなかった。
今年の暮には作事奉行に甚右衛門は持病の眼病がますます悪くなったので来春早々には役儀のことで願い出ると内密に話しておいた。
翌年正月27日病気のため切米、屋敷を差し上げたく願い出る。
かつ又次郎如何様にでも仰せ付け下されと願いを書き、作事奉行に差し出した。
甚右衛門はその後段々と正気を取り戻した。