名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

どうもわからない事件だなあ、ただの不倫ではないのか

元禄9年4月23日。
段之右のところへ仲間や近所の衆が心配して集まる。
この朝、彦平が御老中山澄淡路守へ事件を報告する。
申半刻(午後4時)五十人目付川合作右衛門、大村源兵衛両人が押の者ふたりを従えてやって来る。
段之右と向かい合い、問いかける。
最後には段之右を勝手(台所)に入れ、僕六平を呼び出して事情を尋ねる。
初め小頭衆は座敷にいたが、その間は中に入る。
その後、死体を点検する。
それを細かく記しておく。
女は左の肩先から傷がふたつ、内ひとつは耳までかかる突き傷がひとつ。
腹に突き傷ひとつ。
男は腹を一文字に切り、咽を少し傷つける。
大腸がおびただしく流れ出る。
鼻紙袋の中には金子1分がある。
その他雑多なものを細かく記すが、ここには記さず。
亥半刻(午後10時)、御目付成瀬又平治から押の者ふたりが使いとしてやって来て告げる。
庄左僕の調べには念を入れた上で死体を渡すように。
女も親か請人に渡すように。
この後、小頭衆が立ち合い、庄左のところから死体を請け取りに来た者に死体を渡す。夜には曇る。
この女の夫は堀辺林右衛門といい、牧三郎兵衛のところで若党をしていた。
この日、段之右から人を遣わし、このことを告げる。
お前は夫で間違いないか、関介に思うところがあるのではないかと問うと、ただ口約束して1、2度会っただけである。
ひとりでも生きていれば言いたいことがあるが、死んでしまえばもうどうでもいいと。
それに関介は知り合いでもないと。
このことも彦兵衛の指示で尋ねさせたので、ようやく日暮れになってわかり、彦兵へ報告する。
日暮れに加藤平左衛門がこのことを訴えようと成瀬又平治へ行くも、留守でむなしく帰る。