名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

清左衛門って人は武士だねえ

元禄15年閏8月1日。
夜亥半(午後10時)過ぎ、永井清左衛門の僕伴右衛門が座敷の横4帖敷きの廊下に忍び込んでいた。
伴右衛門は大男で少しばかり力持ちの奥州の者であった。
清左衛門が寝ようとしたので女が蚊帳を吊っていると、廊下で音がしたので清左衛門に知らせた。
すぐに行灯を持って清左衛門は見に行くと、角に縁取(縁取ござ)が立てかけてあった。
清左衛門はあの縁取は昼からあったのか、鳶口で起こせと言った。
グズグズしているうちに縁取を捨てて伴右衛門が出てきた。
清左衛門がそれを見て伴右衛門だなと言うと、脇差を抜いて清左衛門の右腕を切りつけた。
しかし、少しも切れていなかった。
清左衛門は打ち落とされたと思い、左の手で試みた。
この時、行灯を捨てて女が逃げ去り、火が消えた。
清左衛門は脇差を振り回して2度切りつけた。
最初は頭のあたりを少し切り、2度目は受けようとした僕の右手を柄頭の先と共に小刀程度の傷をつけた。
清左衛門は台所の三尺口(出入口)で待ち伏せれば逃げ場はないと思い、そこで脇差を頭上に構えて待っていた。
漸く行灯を持ってきて調べると、既に僕は逃げ出したあとであった。
おと口(母屋の入口)から逃げ出していた。
この時、長屋の家持(町人)日用市右衛門という者は座敷の喧騒を聞きつけてやって来て僕と鉢合わせし、何事だと問いかけたが答えず、部屋に入って何かを捜して門から出て行った。
戸を押し開き、走らずに北の方へ行った。
市右衛門が門を出て、どこへ行くのかと問いかけたが答えなかった。
その後台所へと行き、このことを知知ったと。
清左衛門は50ばかりの男で馬廻中村又蔵組であった。
その夜立ち退くふりをし、翌日に立ち退いた。
書置には召仕が座敷に忍び入ったのでこれを切った。
しかし、病後でもあり殺すことができなかった。
人に会わせる顔もなく、面目もないことである。
知行や屋敷を返上し立ち退くと。
この僕を尋ね出したのなら、親類たちに渡すよう願うと云々。
頭衆は内密に書置を直させた。
その案文がくる。
そこには夜盗人が廊下に忍び入った。
これを切るも、病後で殺すことができなかったと。
その時は僕とは知らず、後に召仕を起こして初めて僕と知ったと云々。
いつもは大門に閉ざしていたが、この夜僕は閉ざす真似をして閉ざしていなかった。
部屋に入るふりをして戸を閉め、部屋には入らずに直ぐに廊下へ忍び込んだ。
親類などが請人に強く言い付けると4日に請人は僕を探し出して捕らえた。
鈴木平次左衛門のところに置いた。
平次妻の伯父で40ばかりの男であった。
首を切ることを清左衛門妻の甥石川瀬左衛門は鈴木平次左衛門に頼んだ。