名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

大きなことを言った十太夫、離婚してるじゃないか

元禄17年3月8日。
申半(午後4時)過ぎ、火事とのことだったが嘘であった。
近江守家来橋爪十大夫目付役の子小姓役分蔵が蓄電する。
初め、十太夫は天野儀平の女を娶り、分蔵を産んでいた。
その妻が死に村瀬自休の女を娶った。
女の子を産むが労咳で死んでしまった。
昨年児嶋一郎右衛門が暇を出した妾を十太夫真福寺で見かけ、目がくらみ、妻とした。
この女は初め瑞竜院様に仕えていたとても美しい女性で、十太夫は磯野古三郎の曽孫(ひまご)となった。
沼田了慶・児島一郎右衛門・磯野などとは縁ができた。
このため橋爪の親類天野・磯野・田中・小串らと十太夫は疎遠になった。
分蔵はこれに迷惑し、色々と父に訴えたが聞き入れてもらえなかった。
今の妻と分蔵は顔をあわせることはなく、昨年冬から病気といって出ても行かなかった。
近頃、中村藤右衛門・十太夫兄橋爪八右衛門らに分蔵は仲介を頼み、妻を離別するか、親と一緒にいると親類と会うこともできないので町屋へ出すか、そうでなければ自分に暇を出してくれと強く伝えた。
仲介の者が十太夫に告げると妻を離別するなど思いもよらぬこと、文蔵は勝手にしろと言い放った。
このため文蔵は書置を残し逐電した。
書置の大意。
自分は父の不孝を蒙り、やむを得ず出奔する。
この上、自分が乱心しようとも立ち退こうとも父をよろしく頼むと云々。
太夫は常々親類・朋友に疎まれており、たとえ疎遠になろうとも妻と手を取り合って乞食をしようとも本望と云々。
この仲介にかかわった者は多く、これでは面目が立たないので色々と相談した。
分蔵の居所がわかると坊主になっており、22日分蔵に暇が出る。
太夫は逼塞申し付けられ20日ばかりで赦される。
逼塞前に妻は離別していた。