名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

人をうわさで判断しちゃいけない

元禄16年11月11日。
因幡殿用人小笠原金太夫は供のため明け方尾張を発とうとすると具足櫃を盗まれた。
急いでいたので舅兼松太郎兵衛の具足を遣わすと。
この日明け方前から太郎兵衛は準備に来ており、具足櫃は志水の日用が江戸へ持って行くことになっていた。
以前太郎兵衛長屋には権六という日用取が住んでいたが、この男が中に通じて盗ませた。
具足櫃の覆いの1つは相応寺町の町屋に捨ててあった。
これを拾った者も預けられる。
11日の夜になって権六は密かに具足櫃を太郎兵衛の長屋に取りに来た。
この日1日預けておくはずだったが、人に見つかるといけないので早く取りに来るようにとでこの如く。
櫃の中の金を取り出し、具足も櫃のままこも(薦)に包み、11日の夜に権六が担いで志水に捨てに行った。
志水ではこの具足櫃の詮議が行われており、これを見とがめ怪しんで権六を付けた。
付けられて権六は不安になり、建中寺の前あたりまで行ったが引き返し、鉄砲塚町にいた権六を知る子持ちの寡婦のところに入った。
これを確認して代官横地仁兵衛に知らせた。
すぐに町奉行に伝わり、足軽3人が亥刻(午後9時)に寡婦の家にやって来た。
しかし、権六はここにいなかったので宵にやって来た者を細かく問い詰めて居場所を聞き、すぐに太郎兵衛のところへ行って子細を述べ、権六を始め残り2人の中間全員を手鎖にした。
足軽が大戸口(玄関)でごそごそしていたのを見て、そこを探してみると覆いの片方を見つけた。
これで間違いないと、太郎兵衛に金の在りかを問い詰め、翌日穴を掘って取り出した。
100両ばかりあったと。
17日に権六は牢に入る。
残る召仕は猶太郎兵衛に預ける。
権六は日頃から律義者と人から褒められていた。
子が2人あり、綺麗に着飾らせていた。
今思えばこれも皆盗んだものであったか。
太夫が岡崎まで供をし、ここから詮議のため具足を尾州へ返させる。
詮議が済むと下されると云々。