名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

可哀そうじゃないですか

元禄16年4月3日。
昨日深夜、加藤三十郎従兄弟の婿で女房は加藤半兵衛の娘である浪人宮本定右衛門が味鋺村原新田の伯父前田権太夫のへやって来て、女房が患っているので来てほしいと言った。
太夫はちょうど伊勢から客人があるので後で行くと言った。
定右衛門が来るときにはよく切れる刀を差して来いと言ったので不振に思った。
太夫は何か自分に含むところがあるのかと問い詰めると、そんなことはないと帰って行った。
どうもおかしいと日ごろから気心の知れた同村浪人穂坂段右衛門と話し込んでいた。
そうこうするうち、定右衛門が権太夫のところへやって来て、戸を打ち破って中へと入った。
女房が権太夫は留守と言ったので、段右衛門のところへ出かけた。
召仕がそれぞれ段右衛門は留守と言ったのでで定右衛門は帰って行った。
段右衛門と権太夫の女房が定右衛門のところへ行って様子を窺うと、乱心に間違いないことを見定めた。
脇差を抜かれないよう段右衛門が手で守るが、力の強い定右衛門は近寄り、段右衛門の腕にかみつき、手離した隙に段右衛門の脇差を奪って頭を切った。
それを権太夫の女房が後ろから抱えてこれを止めたと云々。
段右衛門は帰ってもう我慢ならないと権太夫に訴えた。
太夫は気の毒がり、元は利兵衛と名乗った庄屋金兵衛にうまく処理してくれるよう頼んだ。
金兵衛は定右衛門のところへ出かて無理やり縛り上げ、松明で鬢・髪等を焼いて散々に打ちつけた。
この日昼頃、近江守より捕手の者が出かけた。
天台宗宗輪寺に頼み、金兵衛を納得させて引き取らせた後、入って当身をすると定右衛門は椽(縁)下へ落ちて死んでしまった。
生きていれば災いとなるので、命じて棒で叩き殺した。