名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

博奕の罪は重い

元禄16年6月22日。
申刻(午後3時)、評定所台所に板囲いが出来て権田市太夫が入る。
足軽頭湯本貞右衛門がこれを守る。
家へは町奉行が取り調べに出かけ、道具などには封を付け、母・妻・子(女の子1人)は兄権田与右衛門に預けられる。
召仕は家主から番を付ける。
太夫は初め津守(松平義行)様の馬廻りで、今は昨年暇を出されて浪人であった。
心海寺の南に住んでいたが、この春家を100両で売り、金90両を町代に預け置いていた。に
その後、これも闕所となり、この家を借りて住んでいた。
妻は従兄弟で、伯父のところの入婿であった。
母というのは嫂(兄嫁)であった。
博奕の罪でこの如く。
与右衛門のところへ小麦右衛門が来て、門は閉ざすな、近所へ出て用をたしても良いと言うので門の戸は閉ざさなかった。
世間では与右衛門が遠慮し、戸を閉ざさしてもよいのではと。
もっとも与右衛門は外出しなかったと。
山村庄右衛門はこの日と18日に2度詮議があった。
河村九郎右と冨永金七がこれにあたった。
太夫には津田九郎兵と平岩七太夫が詮議にあたった。