名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

被害妄想なのか、それとも真実か

宝永5年閏1月8日。
夕暮れ頃、御園町東条文蔵の南隣竹腰民部同心竹内紋右衛門という者が、七軒町下山下あたりの町屋の住む手習師匠をする牢人溝尾新平という者のところへやって来た。
新平は近所に出かけていたので下女に頼んで呼びに行かせ、その上酒もを買いに行かせた。
その間に新平が帰って来ると、そこで切り殺して立ち退いた。
書置きが残っていた。
新平は脇差に手をかけてもいなかったと云々。
新平は65、6であった。
初めは津守様(松平義行)の代官で、地方(謡)が巧みであったと云々。
去年妻と別れ、召仕の下女が1人いた。
男の子が2人あり、1人は他国に、1人は他へ養子に出していた。
紋右衛門は頼母子を催し、振舞(もてなし)を行っていた。
新平は勝手(台所)へ入っていき、日頃生活が苦しいと言いながら、このような振舞を行うのはいい加減な奴だなどとほかへ悪口を言っていた。
このため頼母子が上手くいかなかったと云々。
また紋右衛門娘の婚姻を邪魔したとも。
紋右衛門は元来思い込みやすい性格であった。